博識君が肉をくれるお陰で、余と息子は食い物に困ることがなくなった。命を賭して海へ入る必要もない。博識君には感謝してもし足りない。面白くなさそうな顔をしている親友には、いつか灸を据える必要がありそうだ。

 日が経つごとに、島も徐々に以前の姿を取り戻してきた。どこに隠れていたのか、本来我々の餌となる動物たちも姿を見せ始めてきた。

 歯の欠損は舌で感じられるほど露骨なものではなかった。湖面に顔を映してみても、一見しただけでは以前と何が変わったのかわからない。相変わらずの大蜥蜴と顔を合わせるばかりである。強か打ちつけたものだから、どんなにひどい状態にあるのかと気を揉んだものだが、全くの杞憂であったようだ。

 心配事が消えると、食っては眠る生活が戻ってきた。餌を捕り、散歩をして、昼寝をし、時々博識君から知識を得る。毎日ほぼ同じことを繰り返しているため、時間の境目がなくなってくる。昨日と一昨日の違いは、もう定かではない。毎日この小さな島で過ごしていれば、それも当然のことであろう。羽のない余には、博識君のような気軽さで海の向こうを旅することもできない。外の世界に触れるためには、命を張って溺れなければならない。不便な身である。


 いつものように食後の散歩を終えて帰ってきた余は、眠気を覚え、早々に身を横たえた。

以前にも増して、食後の眠気が強くなったように思う。思ったからといって、どうということもないのだが。なんとかせにゃならんと考える前には、もう夢の中にいた。

 今でもその夢については、仔細に語ることができる。

 気付くと余は、光に包まれていた。その眩さは、余の体に異変をもたらしたあの〈光〉を彷彿とさせた。

 初めは目が眩んだ。だが次第に慣れてくると、普段のように瞼を上げていられるようになった。あるいは、光の方が弱まったのかもしれない。辺りを見回すが、空も地面も真っ白で、そもそも自分が地面に立っているかどうかすら判断できなかった。

「こんにちは」鈴の音のような声がした。若い女――むしろ〈少女〉というべき女の声である。

 久しぶりに女性の声を聞いた余は、改めて周囲に視線を走らせた。しかし、声の主と思しき者の姿はどこにもない。空耳かと首を捻ると、声はもう一度聞こえてきた。

「こんにちは、怪獣さん」

 二度も聞こえれば、空耳だとは言い難い。しかもその声は、余に向けられたものであるらしい。

「わたしの声が聞こえますか?」

 ああ、聞こえるとも。余はそのように答えるつもりで口を開いた。だが、出てきたのは紳士的な言葉ではなく、慟哭のような吠え声であった。余は慌てて口を閉じたが、もう遅い。一度口から出てしまった声を引っ込めることなど、誰にもできやしない。

 余は咳払いをし、改めてもう一度、「聞こえていますよお嬢さん」と言おうと試みた。だが、結果は同じであった。喉を開こうとすれば、自然と唸り声が頭をもたげた。

 なかなか返事を返せずやきもきしていると、先に向こうから言葉が発せられた。

「よかった。本当に聞こえてるんだ」

「よかった」とは異なことを申される。発した余自身でさえ不快に思う吠え声を聞いてそのような感想を抱くなんて、相当な変わり者であるとお見受けする。

 声の主について、余は一切思い当たる節がない。そもそも知り合いに少女がいない。身近な女といえば博識君のところの妖精だけであるが、それとて実際に言葉を交したことはないし、そもそも姿を視認したことすらない。

 声は「ふふっ」と笑いをもらした。

「お父さんの言ってたことは本当だったんだ」

 彼女の父上が言ったことと余に一体何の関係があるというのか。

「これはあなたの牙なんですね」

 どれが余の牙なのかしらんと首を捻って、はたと思い至る。あの、流れ着いた島で歯をぶつけた記憶が蘇る。

「そうですか。そんな風にして、歯が欠けてしまったのですね」

 余は何も言っていない。だが、少女には余の頭の中にある記憶がお見通しのようである。顔も見知らぬ相手に心中を覗かれるのは恥ずかしい。だが、この少女に限っていえば、不思議とそれほど不快に感じない。

 少女の自己紹介が始まった。彼女が述べる言葉の中には余の知らぬ単語や用法がいくつか混じっており、所々意味を解さない部分があるが、ここは彼女の言った通りに説明する。

 彼女は今十四歳で、〈トーキョー〉に住む〈チューガクサンネンセー〉である。しかし、〈ガッコー〉には行っていない。どうしても〈クラス〉の雰囲気に馴染めないのだという。最近は毎日〈ヘヤ〉で過ごすことが多く、家族とも〈上手くいっていない〉。その中で、父とだけは言葉を交わす。ここまで話したところで、少女は一旦言葉を切った。

「ごめんなさい。こんな話、聞きたくないですよね」

 声色が沈んでいる。「そんなことはない。知らない言葉も少しはあるが、別に苦痛には感じない」と言ってやりたいが、口から出るのは吠え声ばかり。もどかしいことこの上ない。

「怪獣さんは、どこにいるんですか?」

 問われて余は、返事に窮した。ここが一体どこなのか、自分自身にも分からない。これまでそんなことを説明する機会などなかった。言えることは、島に住んでいるということだけである。

「そこは〈ニホン〉からは遠いんですか?」

 わからない。余は心の底から、今隣に博識君がいないことを悔やむ。

 余が彼女に対して語れることはほとんどない。それならば、彼女の話をもっと聞いていたい。そもそもなぜ、〈トーキョー〉の〈チューガクサンネンセー〉がなぜ余に語りかけてくるのだろうか。

「わたしにも詳しいことはわかりません」

 少女の声が、謝るような色を帯びる。

「わたしはただ、お父さんにもらったあなたの牙を握り締めているだけなんです」

 彼女の父は〈セーブツガクシャ〉で、怪獣が現れたというある島の調査に向かった時に牙を拾った。それを〈ニホン〉へ持ち帰り、〈ケンキュー〉には必要の無い小さな破片を娘である彼女に贈ったのだという。

 話を聞いた限りでは、彼女の父上が行った島は余が流れ着いたあの島である。そして、彼女が父上からもらったという牙はやはり、あの時余がぶつけた歯であるらしい。

「怪獣さん」

 突然真剣な口調で来られたので、余は慌てて居住まいを正した。

「怪獣さんにお願いがあります。一度、〈ニホン〉へ来てくれませんか?」

 何でも、〈ニホン〉では誰も怪獣の存在を認めておらず、島で見つかった牙の破片が余の物であることも信じられていないらしい。どれだけ少女の父上が主張しようとも、笑い者にされるばかりで、最近では白い眼を向けられ、すっかり〈インチキガクシャ〉の烙印を押されているのだという。

 少女が冗談を述べているわけではないことは、十分伝わってきた。彼女は本気で余に頼み事をしている。真剣に願っている。だが、余には簡単に頷くことのできない理由がある。

「駄目、ですか?」

 少女の声がまた沈む。彼女が肩を落とすような声を出す度、余は胸を締め付けられる。

 駄目ではない。行ってやりたいのは山々である。しかし、この一歩はそう簡単には踏み出せない。

 なんと言っても余は、泳げないのだから。

 おっと危ない、と余は首を振る。泳げないという事実を彼女に知られたくない。はっきりとした理由はないが、怪獣が泳げないのはえらく情けないことであるように思えた。

「怪獣さん、お願いです。お父さんを、助けて下さい」

 息が詰まる。心臓を握っているようである。ありありと伝わってくる彼女の切迫した心情と、余の内側で生じるジレンマが、そのような想像をさせるのだ。

 光が再び輝きを増してきた。

 少女の声が遠くなる。呼び掛けんと吠えようにも、喉に詰め物をされたように声が出ない。

 そうして余は、奇妙な夢から目が覚めた。

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