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奇跡が起きた。〈奇跡〉という言葉を無闇矢鱈と使うのはどうかと思うが、やはりそうとしか言いようがない。
あの晩、嵐の海へ踏み出した余は、足掻くこともせず、流れに身を任せ波間を漂った。するとどうしたことだろう、嵐を抜け、水平線に日の光を見る頃には、見慣れた島の影が目に付いたのである。
噴煙は細くなり、だいぶ落ち着いたようであった。水を掻き掻き島へ近付き上陸すると、嗅ぎ慣れた草の匂いが漂ってきた。
しばらくの間は、ここが果たして自分の島であるのか確信が持てなかった。海の向こうには、余の知らぬものがたくさんある。言葉を使う二足歩行の動物然り、彼らの持っていた破裂する棒然り。同じような火山を頂く島があっても、何ら不思議はない。
そんな余の疑念を払ったのは奇しくも、余を島流しの憂き目に遭わせた獣であった。
「やあ、おはよう」茂みから出てきた親友は、いつもと何ら変わらぬ調子で挨拶を述べた。「君にしては随分と早起きじゃないか」
まさか昨日のことを忘れているのではあるまいか。そのような考えが頭を過ぎると、余は怒りを通り越して恐怖を覚えた。
「何を怖い顔をしているんだい?」
「怖い顔は元からだ」
「元々怖い顔が更に怖くなっているのだよ」
「今すぐその喉元に噛み付いてやろうか」
「おお、怖い」親友はわざとらしく身震いした。
しかし、先の言葉はあながち冗談でもない。余の空腹は未だ満たされておらず、このまま理性を失えば目の前の親友に喰らいつくことは必至である。親友は呑気に構えているが、彼がそうしていられるのも、余の精神が頑丈にできているが故のことなのだ。
「パパ、パパ、おかえりなさい」
背中で声がした。見ると、息子が走ってくるところだった。笑っているつもりだろうか、両の口角を無理矢理引っ張り上げている。
「昨日はいくら待っても帰ってこないから心配していました」
ちっとも心配そうな様子はない。
「おや、外泊かね」親友が首を突っ込んでくる。「というと、今日は朝帰りというわけだ」
「朝帰りとは何ですか?」
「もっと大きくなればわかるよ」
ふふふ、と親友が笑うと、息子もへへへ、と笑い声を上げた。
見ようによっては肉が二つ。空腹を満たすには十分だ。
いくら頑丈といえど、物事には限度というものがある。それは余の精神とて例外ではなく、これ以上の負荷が掛かれば理性のたがが音を立てて弾け飛んでしまうだろう。
口の端から涎が垂れそうになった時、余は息子が何か手にしていることに気が付いた。
「お前、それは何だ」
「これですか」息子はこれ見よがしに、手にした骨付き肉に齧り付いた。「肉です」
「何の肉だ」
「それは知りません。〈肉〉とだけ言われました」
「誰に言われたのだ」
「パパのお友達のお兄さんです」
余は親友に目をやった。しかし親友は「僕じゃあないよ」と首を振る。では一体誰が、と首を捻っていると、答えは向こうからやって来た。わざわざ飛んできたのである。
「どうも、お久しぶりです」
大きな蛾であった。彼は我々の近くまで来ると、悠然と羽ばたきながら頭上を旋回した。
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