月明りの契り

犬丸寛太

第1話月明りの契り

 湖の畔に一人の少女が居た。

 深い森の中の小さな湖。

 波の立たない湖面には夜空に浮かぶ物と寸分違わぬ円い月がくっきりと映し出され、湖を囲む白百合は夜露で飾り、月明りに照らされ星々の如く煌めいている。

 真白のうすものを纏い、前髪の長い禿かむろの少女は待っている。


 「一千と一夜の後、再び見えよう。」


 今宵は正しく一千と一夜目。

 契りを交わした男は現れない。

 少女は夜露も気にせずその場に座り込み懐の篠笛を取り出す。藤巻も無い質素な篠笛。

 長い前髪の下、黄金の瞳を伏し目に隠し、少女は小さな口元へそっと笛を添える。

 呂音のまろやかな響きが辺りを満たす。

 しかし、湖面は震えず、白百合は揺れず、深い森が音を閉じ込め、聞き入るように辺りは静けさを増す。

 少女の奏でる音色はまるで出鱈目だった。

 近くの村の童の遊びを盗み聞いて覚えたのか、しかし、聞くものが居れば声を殺し、臓腑のうねる音すらも止めるに違いない。

 半刻、一刻、少女は音を紡ぎ続ける。

 どれほど経ったのか、白百合から落ちた小さな星屑が少女の足を滑る。


「続けてくれ。」


 少女は、再び笛を口に添える。


「良い音じゃ。化かされたとはいえ儂も作った甲斐があるわい。」


 少女の笛の音を遮らぬよう、男は少女の隣にゆっくりと腰を下ろし、続ける。

 

「この辺りの篠竹は相変わらずじゃな。どれも、お月を目掛けて真っすぐ伸びておる。」


 永遠を感じさせる笛の音、なれど、静かに、闇へ溶けて、消える。


「儂を化かしおった癖に律儀なものよ。まこと一千と一夜、待ち続けるとはのう。」


 黄金の獣は男の膝へ身を下ろす。


「一千と一夜、人を化かす技を持とうとも難儀なものじゃ。」


 男が息絶えた獣を優しく撫でる。


「やれやれ、死して尚、儂を化かすか。ははっ。」


 男の手に合わせ、黄金の毛皮が月の光のような白銀へと変わる。

 男は返事の無い事を承知で獣に問いかけた。

 

「のう、土の中で虫に食われるか、湖で魚に食われるかどちらが良いか?」


 獣は無論答えない。

 

「しかし、主は美しいのう。どうじゃ、一つ儂と夫婦にならんか。戦を抜け出した手前、村には帰れぬ。どのみち、この体では儂もここまでじゃ。」


 男は腕に垂れ落ちる血を拭う。決して獣を汚さぬように。


「儂は虫に食われるのも魚に食われるのもごめんじゃ。どうじゃ、鳥にでも食わせれば来世では空を飛べるやもしれぬ。」


 男は白銀の獣を森に、湖に、白百合に、月に見せつけるように、胸元に抱いて身を横たえる。


「主も不憫なものよ、来世までまた待ちぼうけじゃ。」


 男は目を閉じる。


「なれど、次は一千と一夜も待たせぬ。やれ、儂も疲れた。眠ろう。」


 月が湖の真ん中へと移る頃、一切はかそけき。

 


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月明りの契り 犬丸寛太 @kotaro3

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