4-4: 読術

 教授が言った「5/6が情報」という言葉が、まだうまく飲み込めていなかった。情報とは、それが書籍であれば、書き手の心情ではないだろうか。心情ではなかったとしても、そこに描かれていることがらではないだろうか。誰がどこでいつどのように何をした。描写ではなくとも、そういうものではないだろうか。あるいは仕様書なら、おおむね書かれていることはそのまま情報なのではないだろうか。

 教室を移りながら、そんなことを考えた。それは、次の講義が読術だったということもあるだろう。その疑問に答えてもらえる講義になるかどうか、それはわからないが。


 教室を移ってしばらくすると、教授が入って来た。片腕には紙の束を抱えていた。いつものとおり、読術に使う資料だろう。

 教授は教壇の手前で振り向き、資料を配り始めた。資料は二枚だった。それを受け取った学生は、一部取ると、後の席の学生へと回した。その途中で教授が言った。

「今日も二種類の文書がある。バランス良く、読む訓練をしなければならないからね」

 資料が行き渡るまで、教授が話し始めるまで、私は資料に目を通した。資料の前半は、私もよく見るチャールズ言語を言葉で書き下したようなものだった。後半は、エッセイだろうか、小説だろうか。

「では、一枚めから始めよう。一目見てわかるだろうが、ちょっとした算譜の仕様書を模したものだ」

 そこで教授はしばらく一枚めを眺めていた。

 私ももう一度目を落した。その仕様書はこのようなものだった。


|   1. 変数iの値を0にする;

|   2. 変数iに1を加える;

|   3. 試料刻印版の値を読み取る;

|   4. 読み取った値を変数jに格納する;

|   5. 変数iに1を加える;

|   6. 変数iの値が変数jより小さければ:

|     6.1. 変数iに1を加える;

|     6.2. 手順2に戻る;

|   7 変数iの値が変数jに等しければ:

|     7.1. 計算を終える;


 これを見て、私は混乱した。

「えぇと、そこの君、読み上げてくれるかな?」

 顔を上げると、教授は教室の反対側の学生を指名していた。指名された学生は読み上げ始めた。

 だが、私はこの奇妙な擬似算譜に混乱していた。

 iは0から始まり、まず1になる。刻印版の値をjに入れる。ここでは6としてみよう。次にiの値は2になる。ここでは2は6より小さいので、手順6.1によってiの値は3になる。

 手順2に戻り、iの値は4になる。それから手順5でiの値は5になる。ここでも5は6より小さいので、手順6.1によってiの値は6になる。

 手順2に戻り、iの値は7になる。それから手順5でiの値は8になる。これは手順6にも7にも合わない。このような場合、通常次に読み込む算譜刻印版は手順7.1.の次のものになる。では、その算譜には何が刻印されているのだろう?

「では試料刻印版には5が刻印されているとしよう」

 学生が読み終わったのだろう、教授が言った。

「その上で、今の君、どう動作するかね?」

「変数iは0から始まります。手順1によってiの値は1になります。刻印版の値をjに入れると、jの値は5になります。手順5によってiの値は2になります。手順6を見ると、2は5より小さいので、手順6.1によってiの値は3になります。そして手順6.2に従って、手順2に戻ります」

 その学生は朗々と説明した。

「手順2に戻り、iの値は4になります。それから手順5でiの値は5になる。次の手順6は、iの値もjの値も5ですので、次の手順7に移ります。手順7では、iの値は5、jの値も5なので、手順7.1.に移り、そしてそこで計算が終ります」

 最後まで、その学生は説明を終えた。

 教授はその説明に拍手をしていた。

「さて、このような擬似算譜を見たことがある者もいるだろう。そこで質問だ。この擬似算譜にはおかしなところがあるね? どこだろう? わかるものは?」

 先程説明をしていた学生が、立ったまま手を挙げていた。

「手順2から5ではないかと思いますが」

「ほう、それはどういうことか説明できるかな?」

「はい、」

 その学生は大きく息を吸った。

「手順3と4ですが、これは毎回読み取る必要はないと思います。それから、」

「うん、それから?」

 教授が促した。

「手順2と5ですが、二つに分ける必要はなく、手順2、あるいは手順3の箇所で変数iに2を加えればいいのではないかと思います」

 教授はうなずいていた。

「では、君がこれを算譜に刻印できるとしよう。できるかね?」

「はい。できます」

 学生が答えた。

「その場合、この擬似算譜を、君の言ったように変更するかね?」

 その学生はしばらく資料を眺めてから答えた。

「すると思います」

「よろしい」

 教授は笑みを浮かべていた。

「では、毎回試料刻印版から読み取っている理由があるとは考えないかね? あるいは、その変更の過程で誤りが入ったらどう責任を取るつもりだね?」

「あ、あ……」

 その学生は立ち尽していた。

「そう、勝手な変更は加えてはならない。これまでも言っていることだが、またこういうものに限らないが、勝手な解釈を行なってはならない。書いてあるとおりに読み、書いてあるとおりに解釈する。そうでなければならない」

「教授」

 先の講義で指された興奮が残っていたからだろうか、私はそう言い、手を上げた。

「なにかね?」

 私はさきの学生と同じく大きく息を吸い、変数jが6の場合の説明を滔々と述べた。

「それで?」

 教授はそれだけを言った。

「あ、で、ですから、そういう場合があるのですが。これは、擬似算譜を書いた人に、えーと、確認するとか……」

「必要かね?」

「必要だと…… 思い…… ますが」

 教授は首を横に振った。

「言ったばかりだね。書いてあるとおりに読み、書いてあるとおりに解釈する。それでいい。君の言った場合を、君の同僚か上司が把握していないとでも?」

「可能性は…… あるのでは…… ないかと」

 教授は首を横に振り、息を吐いた。

「つまり君はこう言いたいわけだ。私にはこの程度の擬似算譜も書けないと。算譜などというものはだね。いや、それはいいだろう」

「いえ…… いえ、そんなつもりはなく。えぇと、あの、同僚か上司が把握しているという言葉をいただけると、書いてあるとおりに読み、書いてあるとおりに解釈することが正しいのだと、よりはっきりすると…… 思ったので」

 教授はうなずき、笑みを浮かべた。

「そう、それでいい」

 教授は資料に目を戻し、二枚めに移った。

「今度は、うん、君、読み上げてみなさい」

 先の学生でも、私でもない、別の学生を指名した。

 その学生は二枚めを読み上げた。

「さて、ここに『悲しくて涙が流れた』とある。どこかわかるね?」

 教授は教室を見渡した。

「なぜ『悲しくて涙が流れた』のだろう?」

「その前の文に『昔を思い出して』とあります。それでではないでしょうか?」

 教授はまた首を横に振った。

「その文は確かにある。さらにその前には、子供のころにあったことも書いてある。だがね、やはり書いてあるとおりに読み、書いてあるとおりに解釈しなければならない。子供のころにあったことが理由でと書いてあるかね?」

 教授はその学生に目をやり、読み上げた学生は資料に目を落した。

「ありません」

「そう、ないんだよ。ここに、たとえば『思い出したことによって』と書いてあったとしよう。ならば、子供のころにあったことが理由だと言えるだろう。だが、ここには子供のことにあったこと、それを思い出したこと、悲しくて涙が流れたこととしか書いてない」

 教授は大きく息を吐いた。

「そのようにね、無闇やたらに関連づけるものじゃない。そんなふうに関連付けてごらんなさい。あれもこれも関連付けることになるかもしれない。だが、そんなことができるのは?」

 教授はまたその学生を見た。

「神…… のみです」

「そのとおり」

 教授は大きくうなずいた。

「だから、人間は書いてあるとおりに読み、書いてあるとおりに解釈しなければならない。『悲しくて涙が流れた』のなら、それはただ『悲しくて涙が流れた』のだよ。わかるかね? 理由があって『悲しくて涙が流れた』のなら、その理由を明らかにしなければならない。それは書術としていずれ習うだろう」

 その学生もまた大きくうなずいた。

「そして、ただ『悲しい』のだという点においてのみ、共感しなければならない。悲しいのだ、悲しいのだ、悲しいのだと自分に言いきかせ、悲しいのだということを理解し、共感しなければならない」

 教授はしばらくその学生を眺めていた。

「それにしても、」

 教授は言った。

「毎年一回はあるものだね。これだけ『書いてあるとおりに読み、書いてあるとおりに解釈しなければならない』という言葉を繰り返すのは」

 教授は教室を見渡した。

「では、今日の講義はここまでにしよう」

 そう言って、教授はドアへと歩き始めた

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