1-5: 午後: 自由技芸世界 〜弁術〜

 続いて、同じ教室で弁術の講義になった。出席者の顔ぶれはさほど違わない。受講する理由は同じようなものだということだろう。

「これまでは、壇上で話すことに慣れてもらうことが主眼だった。これから本題に入ろう。弁術は書術と似ている」

 教壇から教授が話し始めた。

「もちろん、弁術で述べたことがらは、そのままでは消えてしまう。だが、書術で書いたことがらも、そのままでは充分な効果を得ることは難しい。弁術と書術は車の両輪のようなものだ」

 教授は教室を見渡した。

「さて、では、今述べたこと以外に、弁術と書術ではどういう違いがあるだろう。このことは講義で何回でも繰り返す。それだけ重要なことだからだ」

 教授はまた教室を見渡した。

「第一に、弁術は人前に出て行なうということがある。そのためには、まず、見た目に注意しなければならない。その場、話題にふさわしい服装というものがある」

 教授は上着の襟を整えた。

「もし、ここで私が下層労働者のような服装をしていたとしよう。諸君は私の話を聞くだろうか?」

 教室に静かな笑いが起きた。

「そう、もちろん聞かないだろう」

 教授はうなずいた。

「では、言葉遣いはどうだろう? 仮に地方の訛を丸出しで話したとしよう。諸君は私の話を聞くだろうか?」

 また教室に静かな笑いが起きた。

「そう、やはり聞かないだろう。これらはなぜだろう? わかる人は?」

 一人が手を挙げた。

「講義や、なにかを述べる資格に疑いを持たざるをえないからです」

「そう、そのとおり。何かを述べるにはふさわしい資格というものがある。その点で言えば、諸君が学士号を得ることも、その資格を持つということになる。また、各種の専門資格がある。それもまた、その分野について述べる際には資格として、述べることの正当性を確保するものとなる。とくに聞き手にとってね」

 教授は息をついだ。

「書術との違いは他になにがあるだろうか?」

「声の調子!」

 誰かが答えた。

「そのとおり。メリハリをつけたり、強く言いたいことを言う際には重要だ。だが、他にもある」

「身振り!」

 また誰かが答えた。

「それも、そのとおり。これもメリハリや強く言いたいことには重要だ」

「間の取り方」

「うんうん。そのとおり。大事なことを前後に間を取るというのは効果的な方法だ。他にはないかな?」

 答える学生はいなかった。

「一つは資料だ。これは書術の領分とも言えるが、弁術に用いる資料の書き方というものもある。そして最後の一つはアイ・コンタクトだ」

 私はゆっくりと手を上げた。

「述べる内容はどうなのでしょうか?」

「内容、内容。もちろんそれも大切だ」

 教授はすこし考えたようだった。

「だがね、内容が本当に大切だろうかと考えてみたことはないかな? 内容がないということないだろう。その内容をより効果的に伝えるのが弁術だ」

 教授は右手の人差し指を額に当て、すこし間を取った。

「そこで、諸君は二つの弁術を使いわけなければならなくなる。一つは目上としての弁術であり、もう一つは目下としての弁術だ。想像がつくだろうが、この二つは無関係ではない。なぜかわかる人は?」

 学生の一人が手を上げた。

「尊敬条項に関係するからではないでしょうか」

 教授はうなずいてから答えた。

「そう、そこが問題になる。また、それだけではなく、窃盗条項や強欲条項にも関係する」

 教授は黒板の真中に「諸君」と書いた。

「現在、諸君は目上の人にものを言う場合が多いだろう。その場合、尊敬条項に反しないように敬意を払い、かつ目上の人が窃盗条項や強欲条項、誠意条項に触れるという疑いが持たれないように注意しなければらない。その上で伝えることがあるなら伝えなければならない。これは難しいね」

 ノートを取る音がしていた。

「さて、何かいい考えを思い付いたとしよう。しかし、それが本当にいい考えなのかどうかは、諸君の頭の中にある限りわからない。すると、尊敬条項にもとづいて、目上の人に伝えなければならない。諸君自身でなにかを決められるほど、自分自身が賢いと思う愚か者はここにはいないだろうね」

 そう言うと教授は笑った。

「そこで、相手を敬い、検討してもらいたいという諸君の意図が伝わるようにしなければならない。そこで重要になることは、その考えを諸君が好きなのか嫌いなのかを静かに述べること。そして、次に重要になることは、その考えを相手が気に入ったなら、その考えを相手に献上するということをそれとなく伝えること。つまりは、述べる資格などなどを、目下のものとしてふさわしく使うわけだ。述べる資格がないことを伝えるように、自信なさげに、身を屈め、献上するように。もし相手が気に入ったならその人のものとしてもらえるように」

 教授はまた黒板に向かい、今度は「理屈」と書いた。

「ところで、諸君の何人かは工業専門学校出身だろう。そこで諸君が犯しがちな誤りは、理屈を述べることだ。理屈と人間の心とどちらが大切だろう。理屈とはただの事実と、推測にすぎない。だが、何かを感じたという諸君の心はまぎれもない真実だ。そこを勘違いしてはいけない。しかも、その勘違いによって、目上の人に理屈を振り回すという正気からは外れた行動にさえ出かねない」

 教授はポケットから手帳を取り出し確認した。

「これの前の講義では、セルロイド製の刻印版を題材にしたそうだね。では、諸君がセルロイド製の刻印版を思い付いたという状況で、その思い付きを私にどう伝えるのかの実技をやってみよう。出来そうだと思った者から来たまえ」

 教授は椅子に座り、学生を待った。

 学生がやって来ると、教授はときにうなずき、時に首を振り、時に声を張り上げた。

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