第二章: 興行科学
2-1: 出会い
背広にブラシをかけ、腕にかけ、階下の食堂へと降りて行った。椅子の一つに背広をかけ、厨房に入った。小さいヤカンで湯を沸かし、お茶を淹れた。席につくころ、21日の朝10時を食堂の時計が告げた。
落ち着いていると言えば、嘘になる。大家さんが紹介してくれるという女性はどんな人だろう。興行科学を見に行くが、そういうことに興味がある人だろうか。もし、説明が必要な興行だとしたら、説明をしたほうがいいのだろうか。それとも説明などせず、一緒に驚くか、笑うか、それともあくびをしたほうがいいのだろうか。あるいは、興行科学はさっさと切り上げて、「親のない子」の映画に行ったほうがいいだろうか。
お茶を飲みながら、そんなことを考えていると、玄関が開くベルの音がした。
「はいはい、来たかね」
奥の部屋から大家さんが出て来た。
「別嬪さんだよ」
食堂の前を通りかけに覗くと、そう言った。
「さぁさ、食堂にいたからね。こっちこっち」
二人の足音が聞こえた。大家さんは食堂をまた覗いて言った。
「あの人だけどね、どうかねぇ?」
もう一つの顔が食堂を覗いた。
私は、立とうか座ったままでいようかと、二三度腰を浮かせては下した。結局、体の向きは変えたものの、座ったままで御辞儀をした。
「あんなだけどね、根はいい人だから。さ、入って」
その人は大家さんにうなずくと、食堂に入って来た。
「あ、こちらへ」
私は向いの席に右手を向けた。その人は椅子を引き、腰を下した。
あちらに周って、椅子を引くとかなんとかしたほうがよかっただろうか。
「お茶を…… あ、お湯を沸かしてきますね」
そう言ってその人の顔を見た。静かな、だが心の強そうな顔立ちだった。縁が大きい、流行の帽子を膝に乗せていた。とても淡い赤桃色ワンピースで、半分飾りのベルトを腰に巻いていた。その上に淡い黄色のカーディガンを羽織っていた。
私は厨房に入りお湯を沸かし始めた。興行科学に興味はあるだろうか。さっきも同じことを考えていたと気付き、ヤカンに集中した。厨房用のコンロということもあり、お湯はすぐに沸いた。
ヤカンと茶筒を持ち、食卓に戻った。その人は窓の外に目を向けていた。一人にしておいたのは印象が悪かっただろうか。急須も置きっぱなしだったことに気付いた。今さら、また一人残していいものだろうか。
考えてもしかたがない。考えるなんてのは悪い習慣にすぎない。今はともかくその人と話をしたい。私はさっきの席に戻った。
私は急須にお茶っ葉を継ぎ足し、お湯を注いだ。
「継ぎ足しですみませんが」
「いえ、かまいませんよ」
落ち着いた声だった。
食卓の上に乗っている湯呑みを一つ引っくり返し、お茶を注いだ。私の湯呑みにも注いだ。
「大家さん、私のことをなにか言ってました?」
湯呑みを手に取り、つい聞いた。
その人も湯呑みを取り、片手を添えて口に運んだ。
「すこしだけですが。変ったところもあるけれど、いい人だっておっしゃっていました」
大家さんは、そうは悪くは言っていないのだろうと思う。
「ちょっと人付き合いが苦手だけど、どうにかしようとしているとも」
それを大家さんが見ていたのか、下宿の中で見て取ったのか、それとも典型として言っただけなのか。考えてはみたが、どれともわからない。あぁ、また考えている。
「それで…… 今日は興行科学を見て、それから映画に行こうかと思うんですが」
その人はうなずいていた。
「興行科学に、あの、興味ありますか?」
その人はもう一口飲んでから答えた。
「面白いものなら、ですね」
今日の興行科学は面白いものだっただろうか。自由技芸大学でチラシを貰い、今日興行があるということだけしか憶えていなかった。
「きっと面白いと思いますよ」
でまかせではない。きっと私には面白いだろうから。だが、問題はそこではないのはわかっている。
「ちょっと早いですけど、お昼に行きませんか? 近くの洋食屋でよければ」
その人は湯呑みを置いてうなずいた。
「じゃ、じゃぁ」
私は隣の椅子にかけてあった背広を取り、立ち上がった。その人も静かに立ち上がった。
その洋食屋は角の一つを切り落したような外見をしており、その切り落とされたところが玄関だった。中は小さめのテーブルが四つ、大きめのテーブルが二つあった。店員に小さめのテーブルに通された。洋食屋では、私はハヤシライス定食を、その人はクリームシチュー定食を頼んだ。
食後に、私はコーヒーを、その人は紅茶を頼んだ。
あまり話すことはなかった。
「あ、そう言えば。あの、お名前は……」
なんて間抜けなんだ。今まで名前を聞くことも思いつかなかった。
「
森山さんは笑みを浮かべ、教えてくれた。そして小さく笑った。
「いつ聞いてくれるのかと思ってました」
「あ、失礼しました。自分でも、なんか頭の中が混乱していて……」
「そうですよね。私も同じです。これで、あなたを
「はい。いいもなにも、どうかそう呼んでください」
「そうしますね。狭山さん、今日はよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします。そ、それでですね。あの、夕食もここでかまいませんか? この店、昼と夜ですこしメニューが違うんですよ」
あぁ、何を言っているんだろう。
「そうなんですね。もちろん結構ですよ」
「それじゃぁ、あの、そろそろ行きますか?」
「えぇ」
私たちは席を立ち、勘定をした。一緒に、夕飯の予約も。
すこし歩いて大通りに出ると、市電に乗り、自由技芸大学に向かった。
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