第十四話:手を取った少年
翌朝。
雅騎は、御影、光里と共に、彼女達の家で朝稽古を終えた後。互いに道着のまま、着物姿の
床に置かれし盆を囲むように四人が座り、各々に湯呑を手に取り、ゆっくりとお茶を口にしている。
……が。
雅騎はそんな中、隣に座る御影の、何かを伺う視線が気になって仕方なかった。
その視線。実は今ここで急に向けられたものではない。
稽古中、互いが手合わせをしている時こそその素振りはなかったが。
自分が光里と組手をしている最中、それを正座で見守っていた彼女から向けられし眼差しもまた、そわそわと落ち着かなかったのを知っている。
「……で?」
雅騎は湯呑から口を離すと。じっと御影に視線を向け、たった一言声を掛ける。
「え、あ。な、何だ?」
「何だじゃないだろ。ずっと俺を気にしてさ。何かあったのか?」
図星。
「べべべべ、別に、その。なぁ? 光里」
「え? あ、その……」
思わず彼女は、はっきりとした動揺を見せると、
御影と反対に座っていた彼女もまた、急に話題を振られ、はっとすると、困ったように俯いた。
その戸惑いの理由。
残念ながら、昨晩の時点で態度のおかしかった光里から話を聞いていた
霧華は確かにはっきりと雅騎との関係を否定したのだが。御影は納得できなかったのだ。
最近の彼女の変わりっぷりと、彼との噂が湧いた時期が、あまりにも被りすぎていた、と。
娘達では雅騎にそれを尋ねるのもままならないだろう。
そして。そんな中では稽古にも集中できはしない。
大きなため息と共に、向かいに座っていた
「二人は気にしているのですよ。貴方と如月さんとの関係を」
「は、母上!?」
「ななな、何を言っているのだ!?」
露骨に驚きを見せる双子を交互に見た彼は、これまた呆れるように、大きなため息を
──ったく。そんな事だろうと思ったよ。
昨日の朝から学校で散々事情を聞かれ、徹底してそれを否定した。
その噂位何処からか聞いてくれていても良さそうものだが。彼女達の耳にまで入っていなかったのかと、残念な気持ちになる。
──やっぱり、そういう噂話が好きな辺り、二人も女子なんだな。
そんな勝手な勘違いをしながら、
「別に。図書委員の付き合い位しかないですよ」
やや機嫌悪く、雅騎はそう応えた。
「ほ、本当に、そうなのか!?」
「本当だって。大体、如月さんがあれだけ俺に冷たいのに、何処に好かれてるって感じる要素あるんだよ?」
御影のおどおどする姿を見続けている内に、変な笑いがこみ上げたのか。
呆れ笑いと共に彼はそう返したのだが。
「確かにそうかもしれませんが……」
光里は釈然としない顔をした後、雅騎に向け座り直すと、少しその距離を詰め、やや前のめりにじっと顔を見つめてきた。
その真剣さに、少しだけ雅騎もたじろぐ。
「その答えでは、雅騎様が霧華様をお好きなのではと、勘ぐってしまいます」
彼は、光里もどちらかといえば奥手で消極的だと思っていたため、こうもはっきりと言葉にしてくるとは思ってもいなかった。
彼女の言葉を、
ここまでの
──おいおい。誰かにそこまで聞けって言われたのか?
できなかった。
とはいえ。曖昧なまま、この場をやり過ごす事ができそうにないのは、その場の異様な空気で十分感じ取っている。
だからこそ。
「そんな感情ないって。如月さんとは図書委員で多少知り合った女友達なだけで、それ以上でもそれ以下でもないよ」
そう、はっきりと伝えた。
望ましき回答だったのか。瞬間、御影と光里は同時に、同じ安堵の表情を見せる。
──まったく……。
このやりとりが今日まで尾を引いている事に、多少嫌気が差したのか。雅騎がまた大きくため息を漏らす。
とはいえ、これで話も終わりだろう。そう思ったのだが。
「そういえば、貴方には想い人はいるのですか?」
突然爆弾を放り込んできたのは、
はっとして双子は母と雅騎を交互に見てしまう。
「……え?」
彼も思わず
それもそうだろう。
母は、娘達の心の内を察しているのだ。
そして、こうも想っている。
──貴方なら、娘達との交際を許しても良いのですよ。
だが。
その
次に雅騎が視線を逸し見せた刹那の表情。
それは。何処か歯がゆさと、悔しさ。
目を閉じ頭を掻いた雅騎が、湯呑を盆に戻すと、すっと立ち上がり。
「……すいません。今日の稽古はここまででお願いします」
「ま、雅騎!?」
そう淋しげに告げると、御影の呼び掛けに応える事もなく、そのまま引き戸から道場を出て行ってしまった。
思わず御影と光里は顔を見合わせ、
「ま、まさか!? 雅騎には誰か想い人がいるのか!?」
「
はっきりとした焦りを見せる二人。
機嫌を悪くし去ったと勘違いする彼女達は、その相手が自分達ではないという、最悪の答えを頭に思い浮かべ
だが、唯一
あの一瞬見せた表情に秘められたものを。
──貴方も、まさか……。
騒がしい娘達を他所に、彼女は一人目を閉じると。心の中で自身の軽率な行いを悔いた。
娘達のためを思ったはずが、彼の心の傷に触れてしまったのだと、気づいたのだから。
* * * * *
その日。
霧華にとって、それは久々に普段の日常らしい学校生活だった。
朝の図書委員は雅騎とそつなくこなし。
昨日の彼との恋人騒動に関する問い掛けも随分と減り。
普段どおりに授業を受け、普段どおりの静かな生活を堪能していた。
……表向きは。
霧華は、朝稽古から帰って来た雅騎の異変に気づいていた。
何時もどおり朝食を用意し、笑顔で話をしてはいたが。数日共に過ごしたせいだろう。
ふと、こちらに気を向けていない時の彼の顔が、何処か思い詰めているのに気づいていた。
放課後の図書委員活動の時間。
雅騎が返却された本を、本棚に返す後ろ姿を見ながら。
そんな彼の元気の無さに感化されたのか。
昨晩は忘れることができた、様々な悩みを思い出してしまう。
そんな事は、あり得るのか。
それを確認するように。
彼女はその過去を、思い返していた。
* * * * *
あれは、彼女が七歳の頃の出来事だった。
母、香織の死を目の前で見届け、ショックで言葉を失ってから半年。
彼女は言葉にできぬ声の代わりに、父より預かりしタブレット端末を使い意思の疎通をしてはいたものの。ショックから誰かと話す気概も持てず。父だけでなく、献身的な執事やメイド達ともあまり話さなくなり。失意が心を閉ざし。孤独を加速させていた。
唯一の友達といえば、母が買ってくれたうさぎのぬいぐるみ。
それだけは手放すことなく胸に抱え。彼女はただ、沈黙と共に生きてきた。
そんなある日。
彼女の家に、一組の家族がやってきた。
二週間ほど世話になるというその家族は、
父は眼鏡を掛けた、あまり冴えない、だが優しそうな黒髪の中年。
母は、白銀の長い髪を持った海外の女性。アイシャ。
そして共にいたのが、父と同じ黒髪を持った少年、マサキだった。
圭吾と共に家の玄関で出会った時。
視線があった時の、少年の真っ直ぐな瞳と微笑みに耐えられず、霧華は思わず父の後ろに隠れてしまう。
父親がそんな彼女を見て、少し淋しげな笑みを浮かべ。
「霧華は言葉がしゃべれなくてね。もし良かったら、仲良くしてあげてくれないか?」
と、こんな言葉を零した時。
「分かりました」
はっきりとそう言った彼が
「僕はマサキ。よろしくね」
まるで太陽のような笑顔で微笑んだのが、とても印象深く残っている。
* * * * *
篠宮家が圭吾や
遠間から視線を向ける当時のメイド達は、彼女の『一人にして』という伝言を受け入れるしかなく。ただ離れて黒いワンピースを着た姿を見守るしかできなかった。
うさぎのぬいぐるみをテーブルに乗せ。何をするでもなく。ただぼんやりとそこに座っていた霧華は突然。
「霧華ちゃん」
そう、自身の名前を呼ばれた事に気づく。
声のした方を見ると、まるで一人の時間を邪魔するように、白いシャツとズボンのマサキが笑顔で駆け寄ってきた。
「こんにちは」
笑顔でそう言う彼に、無気力な瞳を向けていた彼女は、頭を小さく下げると、うさぎのぬいぐるみを手に取り、椅子から降りようとする。
「あ、待って!」
が。
彼は慌ててその前に立った。
霧華は、何故かその笑顔を見るのが嫌だった。
話せないと父親から聞いているのに、笑顔で声を掛けてくる無神経な彼に、不機嫌そうに顔を背ける。
だが。彼はそれを意に介そうとせず、突然こんな事を言い始めた。
「あのね。僕の手を、掴んでくれる?」
そう言って、笑顔で彼女の前に手を出すマサキ。
急に何を言っているのか。何をする気なのか。
そんな感情が芽生え。不機嫌さが苛立ちに変わり。
「あー!!」
思わず言葉にできない悲しき声と共に、その手を払おうとした。
だが。まるでそれが視えていたかのように。雅騎は迫った手を、痛くないように差し伸べた手で掴んだ。
まるで、そこに収まるのが当たり前にように、互いの手は繋がれ。
そして。
──一緒に、お話しない?
突然心に聞こえたマサキの優しい声に、霧華は暴れようとする動きを止め、驚きの顔で雅騎を見てしまう。
──えっと。僕に話しかけたいこと、心に思ってみて。
彼女の驚きに動ずることもなく。
声を発さず、敢えて心に語りかけるマサキ。
──なんで……。声が聞こえる、の?
戸惑いが、心でそんな言葉を紡ぐ。
すると。
──これ、僕の力なんだ。でも、皆には内緒だよ?
ニコニコとした笑みは変えず、心でそう応えた雅騎は、しーっと言わんばかりに人差し指を口に添える。
──でも私、お話できないよ。喋れないんだもん。だから、
でも、本当は話したい。
そう、心で素直に想ってしまった彼女に。
──大丈夫。僕となら、こうやって一緒に話せるでしょ?
屈託のない笑みの中のまま、眩しいほどの笑顔を見せるマサキ。
驚きながら。手を取られたまま。
彼女は気づけば、声すら出さず、泣いていた。
流石にそれは予想外だったのか。
思わずマサキがおろおろとする。
「あ、怖かった!? それとも手、痛かった!?」
自分のせいで泣かせたと勘違いしたのは明白。
先に行動しておきながら、動揺を隠せず、思わずそれを声にしてしまう彼に。彼女は赤髪がなびく程勢いよく、必死に首を大きく振った。
──違うの! そうじゃないの! 大丈夫なの!
その心の声を聞き、ほっとして胸をなでおろすマサキ。
霧華も彼に誤解されずに済んだとほっとすると。
──お話、聞いてくれる?
彼女は、おずおずと本心でそう願い。
彼はそれに、笑顔で頷いた。
自分は母親が死んで、ショックで喋れなくなったこと。
そのせいで、皆と話せなくなったこと。
皆が心配してくれるのは分かっているのに。
皆が声を届けてくれるのに。
皆が喋れるのが羨ましくて。
皆に喋れないのが疎ましくて。
それで、皆の近くにいたくないのだと、彼女は暗い表情で話す。
──私って嫌な子なの。
心を自ら責める霧華に。
──そんな事ないよ。
マサキは首を振って否定する。
「え?」っと心で呟ききょとんとする彼女に、彼はひたすらに前向きな言葉を掛けた。
──だって、辛かったんでしょ? 仕方ないよ
──でも……。
──皆が心配してくれてるの分かってあげられるって、凄い優しい事なんだよ。だから霧華ちゃんは良い子だよ。
今思えば、子供ながらに稚拙で、理由にならない慰めの言葉かもしれない。
だがあの時、霧華は本当に驚いた。
出会ったばかりの子が、話したばかりの相手に優しいと言ってくれた事に。
周囲の大人は、誰もそんな事を言ってはくれなかった。
いや、言葉が交わせないのだ。
ここまで話せず、伝えようともしなかったからこそ、こんな言葉を返してもらう機会もなかった。
大人は皆、心配を多く見せ、気にかけながら。
霧華の一人になりたいという我儘を受け入れ。
壊れ物を扱うように、ただそれに従い、距離を置いてしまっていた。
そうなっては、誰も彼女の心など、聞きようもない。
マサキは、そんな彼女に本気で寄り添って来た、初めての者だった。
──本当に、そう思う?
おどおどとした、自信のない視線を向ける彼女に。
──うん!
笑顔で大きく頷くマサキ。
その瞬間。霧華の世界は少しだけ変わり。
それを象徴するように、彼女は涙目のまま、嬉しそうに微笑んだ。
* * * * *
自分の話を聞いてもらえる、マサキという存在が現れてから、霧華は少しずつ変わっていった。
まるで何にも興味を示さず、心なき人形のようになっていた彼女が。
誰の側にもいようとせず、距離を置こうとしていた彼女が。
ずっとマサキと手を繋ぎ、そこにいた。
朝になれば、まるで大事な宝物を必死に探すように彼は何処にいるのか皆に尋ね。姿を見つければ、嬉しそうに手を繋ぐ。
周囲が見ても、二人はただ手を繋いでいるだけ。なのに間違いなく、霧華は普段見せない笑顔を見せていた。
如月家の者達は一様に驚きつつも、敢えて詮索はしなかった。
ただ。ここ半年見ることができなかった笑顔は、大人達の心にあった憂いをも晴らし、安堵の表情を浮かべさせるようになっていく。
霧華は、豪華な家に驚くマサキをもっと沢山驚かそうと、色々な所を案内した。
居間。プール。お風呂。料理場、そして、彼女の部屋。
場所場所で素直に驚いてくれる彼に、霧華は少し自慢げだった。
朝マサキを見かける時は、何時も武術の演舞を庭でしていた。
それが何なのか。そんな彼の話も、彼女は積極的に聞いた。
まるで、話せなかった半年を取り返すように。
同時に、霧華の周囲への態度も徐々に変化した。
「あー!」
メイドや執事に、積極的に声を出して呼び止め、タブレットを使い色々とお願いをした。
マサキにお菓子を持ってきてほしい。
マサキと一緒に出かけたい。
マサキと。
マサキに。
何かあれば、マサキの名を出し。彼の為を理由に、色々とお願いをする彼女。
こんな日はもうないのではと、心痛めていた
こうやって、世界の色が変わり始めた頃。
突然。その時は訪れた。
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