第四話:乗りかかった船

「……つまり、お父さんに試された、って事?」

「ええ……」


 あれから少しして。

 二人は雅騎の家に到着すると、居間のテーブル越しに向かい合って座っていた。


「でも、婚約者フィアンセねぇ……」


 霧華が話してくれた内容を振り返りながら、あぐらを掻いた雅騎は、テーブルに置いていたティーカップから、温かなジャスミン茶を口にする。


 家に着き、彼女から語られた事を振り返りながら、彼はこの先どうすべきか思案していた。


 霧華は突然、父親に婚約者を選ぶよう迫られた事。

 その一人が将暉まさきだった事。

 付きまとわれるのに嫌気が差し、父親に抗議した事。

 父が、将暉まさきもお前も変わらない事を知らしめるため、彼女に家を出て生活する事を提案した事。

 そして、その期間は一週間。


 流石に恩人の話や、婚約者候補が全てマサキという名である事。そして、一週間後に嘘でも良いから婚約者を決め連れてくる事といった、よりプライベートな話は伏せられたものの。

 霧華の口から語られた事実は、雅騎にとって、あまりに現実離れしたものばかりだった。

 とはいえ、彼女の為に状況を打破せねばならないのは変わらないのだが。


「まあ、一旦そこは置いておくとして」


 彼は改めて霧華を見つめ直す。

 正座し、姿勢良く座る彼女は、先程までの怯えや不安の色は随分と落ち着いていた。

 既に部屋の暖房で温まったせいか。白いコートを脱いで脇に置き。丈の長い白いセーターのまま寒さに震えることもなく、じっと眼鏡の裏から雅騎に視線を向ける。


「親戚とか頼れないの?」

「父の力が及ぶ所は頼れないわ」

「それじゃあ、御影は?」

「あそこは家族ぐるみでの付き合いがあるの。父の権力を借りているようなものよ」

「綾摩さんは?」

「ご家族との面識なんて、入院した時位のものよ。そんな所にお世話になれるわけないわ」

「他に友達とかは……」

「知人程度よ。厚かましく世話になれるほど親しくもないわ」


 矢継ぎ早の質問に、迷いなく返される答え。そこに、希望ある未来は感じられない。

 すましながらさらりと答えを返し、カップからジャスミン茶を頂く彼女を見ながら。


  ──そこまで友達いないのかよ……。


 雅騎はため息を漏らしつつ、露骨に肩を落とす。

 膝に片肘を付き、多少困り顔になりながらも、彼は質問を続ける。


「ええと。ホテルとか泊まるのは?」


 その問いかけに、彼女はカップをテーブルに戻そうとする動きを一度止めた後、太腿の上に手を乗せつつカップを持つ。


「私。ホテルの予約なんてした事ないわ」

「そこはこっちで予約してやれば──」

「今は、お金を自由に使えるような環境にないのよ」

「え?」


 霧華が見せていた本来の姿が突然影を潜めた。

 そして、どこかバツが悪そうに視線を逸らす。


「支払いなんて執事に任せていたもの。手持ちなんて、学校内で何かあった時に使うためのもの程度よ」

「幾らくらい?」

「十万円」


 その額に、思わず雅騎の頭が頬杖からガクンとずり落ちる。


  ──手持ちの額じゃないだろ……。


 学生の身分で考えると、有り得ない金額。

 それは親の仕送りがあるとはいえ、バイトしながら頑張っている彼には十分魅力的過ぎた。

 ただ、同時にそれなら、選べる道は幾つかある。

 雅騎は頬杖をやめ、姿勢を正す。


「それだけあったら、安いビジネスホテルなら何とかなるんじゃないかな?」


 そう告げる雅騎だったが。


「……その後は?」

「え?」


 戸惑いながら返される彼女の言葉に、彼は思わず拍子抜けする。


「ホテルに宿泊した後の事よ。その先の生活はどうすれば良いのかしら?」

「どうって、その……。ご飯なんかはコンビニなんかで買うなり、外食して帰ればいいし。洗濯はコインランドリー使うとか、クリーニングに出すとか……」


 毒気どっけを抜かれたかのように、何とか説明を進める雅騎。

 しかし。きょとんとした霧華相手には、そんな数々の提案も、全く響く気配がない。


  ──まさか……。


 ここにきて、彼は忘れかけていたある事実を思い出す。

 とても、大事な事実を。


「えっと、ごめん。外で一人で何処か泊まったり、外食した事は……」

「ないわ」

「掃除とか洗濯とか、料理とかは……」

「……執事とメイドがやってくれていたわ」

「ゲーセンも行ってたんだし、店で一人で買い物位は……」

「…………執事が、常に一緒にいたわよ」


 お互いが現状を理解していくかのように。

 質問の度に、雅騎の表情に戸惑いが強く浮かび。

 霧華が答えを返すまでの間が、開く。


  ──正真正銘の、お嬢様……。


 改めて雅騎は、その事実を突きつけられ。


  ──私は本当に、一人では何も出来ないのね。


 改めて霧華は、そんな現実を突きつけられる。


 まるで、互いが悩みを抱えてしまったかのように。

 二人は無意識に、同時にため息を漏らすと、瞬間。はっとすると、互いに目を合わす。


「今のは失礼だったわね」


 流石に済まなそうな顔で俯く霧華に。


「いや、こっちこそ。ごめん」


 これまた申し訳無さそうに、視線を逸し頭を掻く雅騎。

 そして。二人から言葉が、消えた。


 何を聞くべきか。何を答えるべきか。

 何を決めるべきか。何をしてやるべきか。


 お互い答えに至る言葉を出せずに迷う中。

 沈黙に耐えかねたのか。


「ちょっと、お風呂入れてくるから。そのまま待ってて」


 雅騎はすっと立ち上がると、振り返って居間を出た。

 彼を見送った彼女は、おずおずとカップの中のジャスミン茶に口をつける。


 爽やかな香りと飲み口。

 淹れ方が上手いのか。渋すぎず、喉越しも良い、何処か独特だが癒やされる温かい中国茶に、彼女は少しの驚きと、大きな落胆を見せる。


  ──この茶もそう。名前は知っていたけれど、その味すら知らなかったわ。


 家ではお気に入りの紅茶ばかり飲んでいた。

 勿論、佳穂や御影にファーストフードに連いて行けば、ジュースなども口にはする。

 だが。中国茶と言えば、そういった店で出る烏龍茶位しか口にしたことがない。


 それは別に好き嫌いではなく。たまたま機会に恵まれなかっただけ。

 普通の女子学生ですら飲まない人は飲まない代物であり、そう落胆するようなものでもないのだが。


  ──私は本当に、何も知らず、何も出来ないのね。


 心が強くなれない今。霧華は何もかもが、自虐に繋がってしまい。ただ一人、残された部屋で、暗い顔で俯いていた。


* * * * *


 一方。

 風呂場の中に入った雅騎は、湯の張られていない風呂のへりに両手を突きしゃがみ込むと、落胆するように顔を床に向け、大きくため息をいた。

 その表情にあるのは、これまた落胆。

 とはいえ、理由は霧華とは大きく異なる。


  ──完全にじゃないか……。


 自身を責めるように。彼はその時のことを思い返していた。


* * * * *


 それは、喫茶店『Tea Time』が営業時間を終え、フェルミナと雅騎が閉店作業をしていた時間まで遡る。


「今日はずっと雨ね」

「これだと自転車で帰れないな」


 カウンターを拭くフェルミナと、テーブル席を拭いていた雅騎は、少しだけ互いの手を止めると、闇夜に包まれ、雨がしとしと降る店の外を見ていた。


「明日日曜だし、久々にうちに泊まっていく?」


 肩に掛かった長い金髪を一度背中に向け払うと、フェルミナはカウンターに両肘を突き、頬杖しながら彼に微笑む。


「そうやって。また家事手伝わせる気でしょ?」


 呆れた声を上げ雅騎が彼女に振り返ると、


「ばれましたか」


 悪びれる様子もなく、彼女は年甲斐もなく、可愛らしくてへっと舌を出す。


「でも、どうせ暇なんでしょ? 美味しい晩ごはん作ってあげるわよ?」

「確かにフェルねえのご飯は美味しいけどさ」


 やれやれと肩をすくめると、雅騎は再びテーブルを拭こうと振り返ろうとした。

 その時。


  コンコンコン


 突然。店のドアが外から優しくノックされる音が届いた。

 既に案内板は『CLOSED』にしており、入り口の明かりも落としているにも関わらず。


 今までに閉店後に誰かが来た事などない。

 思わず二人は一度顔を見合わせる。

 フェルミナが、少し真剣な表情で頷くと、雅騎も表情を引き締め店の入り口に向かい、ゆっくりとドアを開けた。


 立っていたのは、傘を差し、じっと彼を見る黒きメイド服を纏った女性だった。

 背中まである、ふわりとボリュームのあるやや暗めの茶髪。

 彼よりは年上であろう、やや大人びた顔立ち。


 雅騎は彼女を見たことはない。だが、同時に察する。この女性がと。

 これは異能の力ではなく、武術家としての彼が感じたもの。ずっと視線を逸らさず、落ち着いた表情で見つめてくる彼女に対し、本能で警戒してしまう。


「速水、雅騎様でいらっしゃいますね」


 抑揚の少ない静かな声。それがまた不気味さを感じさせる。

 彼も真剣な顔で小さく頷くと、


わたくし。如月家でメイドをしております、穂見ほのみしずと申します」


 彼女は傘を持ったまま、軽くその場で会釈した。

 と。そんな挨拶を耳にしたのか。


「あら。こんな時間に珍しいわね。雅騎、奥に通してあげて」


 どこか驚きを含んだ声で、フェルミナは彼にそう指示した。

 それを聞き、雅騎はきょとんとしながら振り返る。


「知り合いなの?」

「まあね」

「ふ~ん。あ、まずは奥へどうぞ」


 どこかすっきりしない気持ちのまま、雅騎は道を開け、彼女を店内に入るよう促す。


「失礼いたします」


 またも会釈したしずは、傘を畳むと入ってすぐの傘立てにそれを差し、ゆっくりと店に入っていった。

 突然現れた如月家のメイドに、雅騎は少し嫌な予感を感じるも、ゆっくりとドアを締める。


「適当にその辺に座って。ダージリンでいい?」


 親しげにそう声を掛けたフェルミナに対し。


「いえ。お気遣いなく。それよりも……」


 彼女は店の中まで進んだ後、くるりと振り返ると、雅騎を見た。


「折り入って、速水様にお話がございます」

「俺に?」


 そのままカウンターに戻ろうとした彼は、その視線を受けドアの前でしずに正対する。


「はい。貴方にです」

「……うちの店の子に、何させる気かしら」


 フェルミナの表情が、親しげな笑顔から一転、牽制するような険しい表情に変わる。

 それは店でも、それこそ雅騎の前でもあまり見せたことがない、真剣な顔。

 気配の変化を察したのだろうか。しずは一度顔をフェルミナに向けた。


「霧華お嬢様を、助けていただきたいのです」

「……如月さんを?」


 瞬間。雅騎は表情を変えた。戸惑いを一瞬で打ち消すように。

 しずは改めて彼に顔を向けると、淡々と語りだす。


「はい。お嬢様は今、下社駅しもやしろえきに向かっております。そこで、偶然を装い合流していただきたいのです」

「どういう事? 秀衡ひでひらさんは一緒じゃないんですか?」

「事情はお話できません。ただ、当面私達わたくしたちは、お嬢様を直接お助けすることができないのです」

「あら。理由も語らず雅騎に頼ろうなんて、図々しくないかしら?」


 露骨に不満を見せながら、冷たい視線を向け、フェルミナがしずとがめる。

 しかし。彼女は表情は変えず。視線も雅騎から離さない。


「そこは本当に申し訳ないと感じております。ですが。今、わたくしの口からお伝えできるのは、これだけなのです」


 そうはっきりと彼に伝えたしずは、瞬間深々と頭を下げる。


「不躾なお話なのは重々承知しております。お願いいたします。どうか、お嬢様にお力をお貸しください」


 彼女を見て、フェルミナが呆れたような視線を雅騎に向ける。

 勿論そこには「どうするの?」という、問いかけが秘められているのは一目瞭然。

 そして、彼もまたそれに、困ったような顔を返すことしかできなかった。


  ──どういう事だ!? 如月さんが家の支援を受けられないって……。


 起きた事態は何なのか。

 何故、だからといって助けなければいけないのが自分なのか。

 残念ながら、雅騎にとって、分からなすぎる事が、そこには多すぎた。


 普通の者なら、こんな曖昧なを受けることなどないだろう。


 しかし。

 結局彼は、速水雅騎だった。


* * * * *


  ──これ、絶対こうなるの分かって依頼しただろ……。


 またも大きなため息を漏らした雅騎は、風呂場で途方に暮れる。

 霧華から理由を聞き、今真っ先に誰を疑ったかといえば、しず……ではなく、秀衡ひでひら


 御影が失踪し、霧華に佳穂を元気づけるよう頼んだあの日。

 それこそ十年弱ぶりに再会した二人だが、秀衡ひでひらはその時、彼をしっかりと認識していた。

 雅騎の父、速水はやみ勇輝ゆうきを介し圭吾に伝えられた、『雅騎が霧華の恩人である事を、彼女に伝えないでほしい』という約束も知っていた。


 だからこそ。自分が指名されたことを改めて理解し。同時にその罠にあっさり飛び込んでしまった事に、雅騎は今更ながらに後悔した。

 とはいえ、既に霧華は家にいる。ここで放り投げる訳にもいかない。


  ──フェルねえに頼んでみるかな……。


 そう思うも。


「あなたはもう少し、考えて行動しなさい」


 電話越しにそう苦言を呈されるのが容易に想像できたせいか。またも大きなため息をいてしまう。


「ま、しゃあないよな……」


 雅騎は諦めたように身体を起こし、壁にある蛇口を浴槽に向けると、前屈みになり無意識にハンドルを捻る。

 と。その瞬間──。


「うわぁぁぁぁぁっ!?」


 彼は思わ絶叫を上げた。


「速水!?」


 叫び声を聞き、霧華が血相を変えて風呂場まで駆け込んで来る。

 そこで彼女が見たもの。

 それは……頭から制服ごとずぶ濡れになった、雅騎の姿だった。


 既に元凶であるシャワーからの水は止まっていたが、僅かに残っている水滴が、シャワーヘッドからぽちゃり、ぽちゃりと彼の頭に落ちる。

 あっけに取られる霧華に向け、雅騎もゆっくりと顔を向ける。

 当の本人も完全に予想外だったのだろう。その表情は、しまりのない間の抜けたもの。

 残念ながら、水も滴るいい男とは言い難い。


 お互いの視線が合い。暫しの沈黙の後。


「……フフ。あはははっ!」


 突然。霧華が、笑った。

 口と腹に手を当て。普段見せない、可笑しさを堪えきれない笑顔で。

 そんな彼女の態度に、雅騎は無意識に不貞腐れた顔になる。

 表情の変化の理由を霧華は理解したのだろう。

 だが、笑いが抑えられない。


「ご、ごめんなさい! だって貴方、普段見せない位、酷い顔してるんですもの。ウフフッ」


 必死に笑いを堪らえようとする彼女から、雅騎は視線を逸らす。

 表情は未だ憮然としている。だが。ちらりと彼女を横目で見ると。


  ──ちゃんと、笑えるんだな。


 彼は心で安堵した。

 雅騎は、高校に入り彼女に出会った後。ここまで感情的に笑った彼女を見たことはなかったのだから。


  ──「まあきぃぃぃっ! あいがとぉぉぉぉっ!!」


 心にふと思い浮かんだ別れの日。

 幼き赤髪の少女が、大好きなうさぎのぬいぐるみを抱え。涙しながら、だが必死に笑顔を見せ自分に手を振ってくれたあの日。

 自分はそれを見て、とても安堵した事を思い出す。


  ──乗りかかった、船だよな。


 目を閉じ。ふっと優しい笑みを浮かべた雅騎は、霧華の笑い声を聞きながら、ゆっくりと頭を掻いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る