第五話:知らない事を知る機会
あの後。
雅騎は先に質素な水色一緒のパジャマに着替え。湯船が張れたのを確認し、先に霧華に入浴を促した。
そして彼女が風呂に入っている間。居間の窓際に立ったまま、スマートフォンを使い、ある者に電話をしていた。
『全く。相変わらずなんだから』
呆れた女性の声と、続くため息。
それは
「仕方ないだろ。それで、フェル
『話通りなら、ダメね』
スマートフォン越しに届く回答に、雅騎は表情を曇らせる。
『前に店に来た時に彼女は気づいてなかったようだけど。私も言わば、あの子のお父さんと関係がある人間だもの』
「……だよなぁ」
分かってはいた事だが。その事実を告げられ、思わず彼は落胆した声を上げる。
『彼女に一週間あなたの家を貸して、あなただけうちに泊まる?』
「あー。多分無理。家事類全般出来なそうだったし」
『なら、あなたが頑張るしかないわね。私と暮らしてた時期もあるんだから、問題ないでしょ?』
「そうは言っても、あれは若かったし……」
『今だって十分若いでしょうに』
雅騎の苦言に呆れるように返したフェルミナが、刹那。ふふっと小さく笑う。
『何かあればサポートはするわ。だから、まずはあなたが覚悟を決めなさい』
最後通告のような言葉を耳にし。
「……分かったよ。ありがとう」
雅騎はため息を
『じゃあ、またね』
「ありがとう。おやすみなさい」
こうして会話を追えた雅騎は、諦めの気持ちをまた、ため息とした。
そのままテーブル前のクッションに腰を下ろし、あぐらに片肘を突き、顎を乗せた状態で、彼は瞑想するかのように目を閉じる。
──やっぱりこうなるよなぁ。
分かってはいた。
が。こうなるともう、彼女が言ったとおり、自身が覚悟を決める以外に手はない。
──とはいえ。如月さんがどう反応するか、だよな。
霧華がもし申し出を断ったら。その場合、どう彼女を助けるべきか。
その答えを雅騎は持ち合わせていない。だが、今それを考えるには、色々とありすぎ、混乱の最中にある頭では整理できない。
「明日起きてから、考えるか」
思わずそう口を
「何を考えるの?」
突然返事が返ったかと思うと。静かに居間の引き戸が開き、そこから頭にバスタオルを巻いた、同じくパジャマ姿の霧華が姿を現した。
水玉柄のワンピースタイプのパジャマを着た彼女は、女性の中でもスタイルが良いためか。自然と女性らしさが協調されている。
湯上がりでやや火照ったほんのり赤い顔といい。それは彼を赤くさせ、緊張させるだけの破壊力を持っていた。
どこか普段と違う雰囲気を嫌ったのか。僅かに顔を赤らめると視線を逸す雅騎に。
「速水?」
彼女が小さく首を傾げる。
その声にも、彼は横を向いたまま動かない。
「あ、ごめん。今後の事、考えててさ」
その場を取り繕うようにそう口にすると、霧華もまた視線を落とし、彼の向かいのクッションに、正座を崩しつつ座る。
「……呆れてるわよね」
「え?」
ふと、弱々しい声で呟く彼女に、雅騎は顔を向ける。そこに座る霧華には、普段の冷たさではなく、何処かしおらしさがあった。しかし、それは彼女らしからぬ姿。
彼が言葉を返せずにいると。霧華はポツリ、ポツリと話し始めた。
「勢いに任せ家を出てすぐ、これほど自分一人じゃ何も出来ないのかと痛感したわ」
憂いを見せ、ゆっくりと
「その結果、これだけ貴方にも迷惑を掛けてるんだもの。貴方だって呆れるでしょ?」
「……いや、別に」
「良いのよ。強がらなくても」
返答に困る雅騎の動揺を察し、彼女は寂しそうな笑みを浮かべた。
「結局。お
「え?」
「自分で何もできないんだもの。それじゃ、ダメなのよ」
小さくため息を
そこにあるのは、夢破れ、落胆を色濃く見せる少女だけ。
そんな彼女に。
「如月さんってさ。神様でも目指すの?」
雅騎は突然、意味の分からぬ言葉を投げかけた。
僅かに驚きを顔に浮かべ、彼女はゆっくりと顔を雅騎に向ける。
そこには「家に連れて来る」と言い切った時と同じ、真剣な彼がいた。
「神様だったら……いや。神様だってさ。できない事もあるじゃない」
「それは、そうかもしれないわ。でも……」
「俺だって、今でこそ一人暮らししてるけど。昔は掃除も洗濯も、料理だってできやしなかったよ。だけど、機会があって触れざるを得なくなって、やっと覚えて、今があるだけ」
そういうと、彼は微笑んだ。
「如月さんは確かに知らない事も、できない事もあるよ。だけど、その分知っている事も、できる事もあるじゃない。学年ベストテンに入る成績を残してるし。財閥のお嬢様だからこそ、そういうマナーとかも知ってるよね?」
「……ええ」
「それって凄い事なんだよ。俺じゃできないし、俺じゃ知らないんだから。お互い違う生活をしていたら、そういうことなんて幾らだってあるさ。大体御影なんて、てんで勉強できないだろ?」
それを聞き、霧華の脳裏に浮かんだもの。それは勉強を
何処か滑稽だった彼女を思い出したのか。それが霧華に少しだけ笑みをもたらし。その笑みが、雅騎の心に安堵をもたらす。
「知らないことは、悪いことじゃない。だから逆に考えなよ」
「逆に?」
「そう。もし如月さんが知りたいなら、今それを知る事ができる。そのきっかけを貰ったってさ」
諭すように、雅騎がそう口にする。
だが。その言葉に、彼女はまたも表情を曇らせ、視線を落とした。
「だけど、私は……」
この先どうすればよいのか。未だ道も定まっていない霧華にとって。知る機会があったとしても、生きることができるかすら分からない今を、肯定などできやしなかった。
その言葉に。雅騎は、ゆっくりと息を
「一週間だよね?」
「え? ええ……」
改めて口にされた期間に、霧華は戸惑いがちに上目遣いで視線を向ける。
「如月さんの家のように、豪華で美味しい食事を提供もできないだろうし。一人じゃないから落ち着かないかもしれない。面倒でもこっちの家のルールに従って貰う必要もあるし。そ、それに……」
と。
突然彼は、何か言いづらそうに口ごもると僅かに顔を赤らめ視線を逸らす。
そして。ため息を漏らした後。覚悟を決めたように、その先を口にした。
「し、下着とかも、俺に洗濯される事にもなる……けど……。それでいいなら、ここで暮らしなよ」
「え?」
霧華は思わず唖然とした顔で雅騎を見つめた。
顔を真っ赤にし。バツの悪そうな表情のまま。あらぬ方向を向き視線を合わせようとしない。
その言葉を口にするのも。その覚悟を決めるのも。それだけ勇気と覚悟がいったというのが、霧華にもはっきり伝わる。
確かに。家にいるのと違い、不自由だらけだろう。
確かに。何も知らない事ばかり故、迷惑を掛けねばならない。
そして何より。見知った相手とはいえ、男女ひとつ。同じ屋根の下。
それはやはり、多少なりとも不安を掻き立てる。
だからこそ断るべき。
そう霧華はそう強く思い。だが、その心を口にする事を、思い留まった。
雅騎は示してくれたのだ。
知らぬことは、無知ではないと。
自身の力で何かを成せるかもしれない。そんな希望を。
彼の指し示す未来。彼女は、そこに新たな可能性を感じてしまう。
まるで。絶望の谷にあった自分を助けてくれた
「……迷惑にしか、ならないんじゃなくて?」
自信なさげに返す言葉に。
「迷惑とかは、気にしないで」
改めて彼女に正対するように姿勢を向け、雅騎は真剣な瞳を向ける。
じっと、視線を交わし。
じっと、心を探り。
霧華は、大きなため息を漏らすと、ふっとそっぽを向いた。
「貴方がそこまで言うなら、世話になっても、良いわ」
何処か困った顔で、照れくさそうに口にされる、素直じゃない言葉。
だが、雅騎には分かる。それが精一杯の霧華の強がりであり。精一杯普段どおりに見せようとする彼女の姿だと。
だからこそ。
「じゃ、決まりだね」
皮肉を言われた時のように。わざと苦笑しながら、そう返したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます