第三話:待たぬ人、来たる
既に二十時を過ぎた、
家路に向かう人々の波を避けるように、霧華は一人、駅舎の入り口の屋根の下、壁に背を預け、雨を避けるように立っていた。
私服の白いコートに膝丈ほどの白いスカートで身を包み、赤いキャリーバッグを脇に置いた彼女は、まるで今の雨空と同じように、晴れぬ心でただぼんやりと、夜の街をじっと眺めている。
数十分前に簡単な荷造りを終えたばかりで、
「住む場所が決まりましたら、念のためご連絡ください」
そう言い残し、彼は普段の送迎と変わらぬ態度で会釈をし、車で去っていた。
当てのない生活の始まり。
そこには、
──これからどうすればよいの?
しとしとと降り続ける雨の中。
時折吹く風の冷たさが、彼女の心と身体を震わせてしまう。
父の提案を思わず受けてしまったことを後悔しそうになる自分に気づき、霧華ははっとして首を振るも。現実は非情だ。
彼女を慕う取り巻きなど、赤の他人と変わらず。
他人といるより一人の時間を優先してきた彼女には、同級生として接する知人こそいれど、まともに女友達など佳穂と御影位なもの。
その二人を頼る選択を、霧華が我儘を当たり前に押し出せる性格だったなら、迷わず選択しただろうが。残念ながら、そんな性格ではない。
佳穂は友達としての歴が短いのもあったが、彼女の家族との面識など、ドラゴン戦で入院した時程度。
そんな家庭にづけづけと踏み込んでいけるほど非常識ではなく。
御影とは家族との面識もあるが、それもまた、父が活動する組織の協力者としての
そんな家で世話になる事は、父の言う権力の中にあるように感じてしまい、気が引けた。
そうなると、今の彼女は他の手段で、自力で道を切り拓くしかないのだが。
霧華は非常識ではない。
だが。彼女には常識が足りなすぎた。
ホテル。インターネットカフェやカラオケ。二十四時間のファミレスやファーストフードなど。
経験者であれば、ある程度そういった自力で行動できる場所も思いつく所だろう。
だが、経験したことのない施設はともかく。経験した事がある場所ですら、予約や支払いも含め、今まで執事やメイドなど、誰かが必ず霧華を助けてくれていた。
つまり。
誰かがいれば、問題はないが。
誰もいなければ、問題しかない。
孤独な状況は、ただひたすらに不安を際立たせ。
彼女は未知なる世界への恐怖に、立ち
そして。孤高に美少女が、夜分に一人立っていれば。獲物を狙うかのように群がる者も、現れる。
「あれ~? 彼女、一人でどうしちゃったの?」
誠実さの欠片もない妙に軽い言葉に、霧華はふと顔を上げる。
そこには自身より背の高い、茶髪に肌を黒く焼いた、目に見えて軽そうな雰囲気を持つ年上の男が立っていた。
スカジャンに履き古されたジーパン。ピアスを耳に幾つも付けた、見た目に関わりたくもない相手。
男はまるで彼女を品定めするかのように、
「……人を待っているだけですわ」
「へぇ。もう三十分は待っているみたいだけど。ドタキャン食らっちゃった?」
「別に。貴方には関係ありませんわ」
「そっか~。だったら、関係持っちゃおうか?」
突然覆いかぶさるように霧華を壁に追い詰めた男は、彼女がはっきりと嫌悪を浮かべてしまうほど、悪そうに笑う。
通りがかりの人達がそんな彼を一瞥するも。関わってはいけないと、見ぬふりをしては、雑踏に紛れていくばかり。誰一人彼女を助けようとはしない。
「折角だし、一緒に遊びに行かない?」
「お断り、しますわ」
霧華はそんな男を、思わず強く睨む──事ができなかった。
彼女は
しかし。今までこのような普段の有事の際は、陰で見守りし
そして今の彼女には、そんな頼もしき執事もメイドもいない。
何より。
霧華が今まで戦ってきた相手は、人ではない物ばかりだ。
どれだけ今まで、権力の中で仲間を率い、戦ってきた勇敢な彼女であっても、悪人相手に直接戦った経験などない。
そう。彼女は今まで、ここまではっきりとした人間の悪意を、露骨に向けられたことなどなかったのだ。
それでなくても孤独な今。既に心が弱っている中で経験する、未知なる世界の洗礼。
──くっ……。
その恐怖は、霧華の心を引きつらせ、身を
相手を強く払いのける。
たったそれだけの事すら、できなかった。
身を震わせ、怯えた表情を見せる彼女に欲情を覚えたのか。
男が舌なめずりをし、顔をより間近に寄せる。
「きっと、すっご~く、楽しめるよ」
耳元で囁く声。
そこに、彼女を思いやる意思など感じられない。
霧華は思わず避けるように目を逸らし、心を恐怖の色に染め、瞳をぎゅっと閉じた。
堪えるように、嬉しそうに
周囲の人並みからも、救世主など現れない……はずだった。
「あの、何してるんですか?」
「ああん!?」
突然の声に、霧華ははっと目を開くと。
怪訝そうな顔を向け振り返った男の視線の先に、全く怯えることのない、見慣れたコートと学生服を着た男が立っていた。
「その子、俺の待ち人なんですけど」
まるで当たり前、と言わんばかりに平然そう口にする相手に。
「速水……」
無意識に、彼女は小さくその名を口にしてしまった。
突然の雅騎の乱入に露骨に不満と苛立ちを顔に見せた男は、値踏みするように彼をジロジロと見る。
年齢は年下。体格も細身。そして。平然としてはいるものの、強そうな雰囲気は微塵も感じない。
──ふん。ただの強がりなガキか。
男は折角の楽しい時間を邪魔されたせいか。露骨に嫌な顔を見せた後、壁についた手を退けると振り返り、雅騎に向かい合った。
「いやね。このお嬢ちゃんとよろしくしようかな~? な~んて思ったんだけどさぁ」
前のめりの姿勢を取り、目に見える喧嘩腰で彼を睨む男に。
「すいませんが、彼女はこの後俺と予定があるんで」
雅騎は平静を保ったままそう返すと、霧華に困ったような笑みを向けた。
「待たせてごめん」
待ってなどいない。
自分はただそこにいただけなのに。
彼はまたあの日のように。自分を助ける言葉を自然と口にする。
──何をしてるの!? この男は危険なのよ!?
彼女は心でそう強く思うも。突然すぎる邂逅の連続に、それを言葉にすることができなかった。
そんな中。急に蚊帳の外に置かれた男は、はっきりと分かる苛立ちを見せると、拳をぎゅっと握り、身を震わせ。
次の瞬間。
「坊主。ふざけるのもいい加減に──」
脅すような低い声をあげながら、その拳を振るおうとした。
だが、その腕が振り上げた所で、男は言葉と、動きを止めた。
雅騎がゆっくりと、彼に視線を向ける。
釣られるように、霧華も男の顔に視線をやると、目を見開いた。
青ざめた顔。顔を流れ落ちる多くの冷や汗。
まるで何か見てはいけないものを見てしまったかのような、怯えた表情。
先程まで意気がっていたとは思えない男の変貌。
そこに何があるのか。不可思議な光景の真実に、霧華は気づけなかった。
男の脳裏に過ぎったもの。
それは、身体に無数の痣を受け、口や額から血を流し。まるで死んだかのように恐怖に引きつった顔で、目をむき出しにし。彼の前に倒れている、自分の無惨な姿。
そのあまり
「もし、彼女に手を出すって言うなら。覚悟してください」
男はその言葉の意味を理解したのか。
大きくびくっと身を震わせると、身体の震えを強くしながら一歩、二歩と後ずさり、そして。
「う、うわぁぁぁぁっ!!」
堪えきれない恐怖を声にすると、男は脱兎のごとく雨の街に駆け出していった。
突然の事に、皆が男を目で追う。が、すぐに日常を取り戻したかのように。
その場に残された雅騎は、大きくひとつため息を
「大丈夫だった?」
掛けられた言葉に、彼女ははっと我に返ると彼の顔を見た。
何時ものように見せる明るい笑み。
だがその表情は、やや青ざめているようにも見える。
「え、ええ。大丈夫よ」
戸惑いつつも何とか言葉を返す霧華に、彼は安堵の表情を見せた。
──何があったの!? 何故、貴方がここに!?
恐怖から解放されたとはいえ。短時間で色々な出来事が起こりすぎたせいか。彼女は未だ混乱の最中を
対する雅騎は、彼女の動揺を感じつつ。
──ちょっと、やりすぎたか?
心の中で、ほんの少しだけ反省した。
怯えた霧華を見つけた時。彼はそこに割って入ることに迷いはなかった。
だが。見た瞬間から強く感じる、人を
普段なら人に向け絶対に使わないであろう術、
彼はその術で男に強い恐怖を視せてやったのだ。
ただその術は、決して軽くない。
多くの
「それより、こんな時間に一人でどうしたの?」
大きく深呼吸し、己を落ち着けようと努力する霧華に、何かを思い出したかのように、彼はそう尋ねてみると、
「……別に。迎えを待っていただけよ」
彼女は少し答えに
だが、彼は見逃さなかった。
その目が瞬間、不安そうに泳いだことを。
「如月さん。嘘、ついてるよね?」
少し心配そうに雅騎がそう尋ねると、霧華は伏し目がちのまま、
「何故、そう思うの?」
思わず尋ね返してしまう。
「……普段らしくないから」
「別に。何時もと変わらないわ」
会話を交わしながら見せる、彼女の気丈さ。
だがそれは、決して普段の強気を感じさせることはない。
勿論、先程までの恐怖があったことは否めない。
しかしそれでも。雅騎は普段とは違う彼女の異変に気づき、こう指摘した。
「普段だったら、尋ね返さずに皮肉を言ってるよ」
苦笑いしながら口にされた言葉に。霧華はバツが悪そうに、上目遣いでちらりと見る。
その言葉を否定することは、彼女にはできなかった。
それ程までに、彼女は今、自分がどうすればいいか、分からなくなっていたのだから。
「家の人、少し待たせられる?」
異変をはっきりと捉えた彼は、一度頭を困ったように掻くと、何か覚悟を決めたかのように真剣に、静かに問いかける。
その真っ直ぐな視線を受け止めきれず、霧華は眼鏡の下の表情をより曇らせ、俯いてしまう。
──彼に、これ以上迷惑を掛けられないわ……。
そう分かっていながらも。
「もう……誰も迎えになんて、来ないわ」
心の声を、漏らしてしまった。
──まじかよ……。
予想外の……いや。予想通りの答えに、雅騎は目を見開き彼女を見た。
伏せた顔は前髪で隠れ、表情を彼が見ることはできない。だがその弱々しい声は、嘘ではないと物語っている。
自然と出る、大きなため息。
霧華から顔を背けると、とてつもなく困った顔を浮かべ、強く頭を掻く。
──ったく。
本当なら駄目だと理解している。
だが。ここに顔を出し、彼女を助けた時点で。それを避ける選択肢は、彼にはもうなかった。
「ここじゃ落ち着かないからさ。俺の家で話を聞いてもいい?」
「え?」
突然の申し出に、霧華は僅かな驚きと共に顔を上げると、雅騎はそっぽを向いたまま頬を掻き、どこか申し訳無さげな顔を見せる。
止む無くその答えを選択したのでは。そんな気持ちを汲み取った彼女の罪悪感が大きくもたげ。
「……結構よ」
そう声にしようとした瞬間。
「……いや。やっぱり、嫌だって言っても連れて行くよ」
まるで断られる未来を予想したかのように。雅騎は覚悟を決めた凛とした表情で彼女に向き直り、先にそう口にしていた。
言葉を遮られ、何も言えなくなる霧華に。
「こんな所で、一人になんてできないから」
雅騎はしっかりと、そう告げる。
暫しの沈黙。
二人の周囲には未だ止まぬ雨の音と、駅を出入りする人々の喧騒が包む中。
霧華は申し訳無さそうに。ただ、小さく頷く事しか出来なかった。
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