第36話 自分の境
「殿下、お疲れ様でした」
剣舞を終えた男の元に駆け寄ってくる女。彼女は誰だろう? 一瞬男は疑問に思ったが表情に出すことは決してしない。
「無事終了だな。どうだった? 我の舞は?」
「はい。あのすごく格好良かったです」
そう言って彼女が一歩近づいてくる。それに男はおや? と思った。サムーラ国の第一王子に接するには女の距離が近すぎたからだ。
(ああ、彼女の名前はナタリーか)
最近『自分』のお手つきとなった女。異常なまでに距離を詰める彼女が何を望んでいるのか分かって、男は渋々ながらもそれに応えようとしたのがーー
「それでは今日の我はどうだった?」
彼女の両肩をそっと掴んで体を離す。そんな自分の行動に女と、そして男自身も驚いた。
「えっ!? あの、どうだと言うのは?」
「いつもと比べてどう見える?」
「えっと……格好良く見えます」
剣舞用の衣装に身を包んだ男を見て、ナタリーはそう言った。それに男は女にはしっかりと自分が『殿下』に見えているのだと、そんな当たり前のことを再確認した。
だから男は笑った。何故なら男は今『殿下』なのだから。殿下ならば手を出した女に褒められれば、嬉しそうに笑う。だから男も笑った。今までそうやってきたように。
「そうであろう。そうであろう。また我に抱かれたいという女が増えるな」
「まぁ、殿下ったら。これ以上増えたら国中の女が殿下の妻になってしまいますわ。それに……」
スッ、と女が体を寄せてきた。それに男は困った。そして困る自分に戸惑った。
「暫くの間は私だけを可愛がってくださる約束でしょう」
そう言って女の唇が近づいてくる。ここで避けるのは『殿下』としておかしい。故に応じるべきだ。しかし男はその行為が酷く不実なものである気がした。そしてーー
「殿下、今よろしいでしょうか」
二人に声が掛けられた。これ幸いとばかりに男は女から体を離す。その男の行動にナタリーが意外そうな顔をした。そう、殿下は人の目など気にしない。だから人目を気にして行為を中断するのは不自然な行動だった。だがしてしまったものは仕方ない。男は自分にそう言い聞かせて『殿下』を続ける。
「見ての通り良いところだったのだがな。……何の用だ?」
「はい。お話がございます。少しばかりお時間を取らせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「ふむ。まぁ、仕方あるまい。許せよナタリー、この忙しなさも人の上に立つ者の定めなのだ」
「……はい。よ~く存じております、殿下」
ナタリーは明らかな不満を口にした。無理もない。『殿下』は飽きが早い。もう自分が寵愛を受ける時間は終わりなのかと考えているのだろう。
(フォローするべきか?)
だがそれをすれば確実に先程の続きをしなくてはならなくなる。ナタリーは魅力的な女性ではあれど、それとは別の部分に拒否感を覚えた男は、不満そうな女に黙って背を向けた。
「こちらです、殿下」
そうして男は女から離れる。男を呼びに来たのは殿下の腹心の部下だ。彼の背中について行って男は小部屋に入った。
「見ていたぞ。お前らしくもないな。女の情愛に我がどう応じるか、知り尽くしているはずであろう?」
部屋の中には男と全く同じ顔の男が待ち受けていた。この瞬間、いつも男は『自分』がどちらだったのか境が曖昧になっていた。だが今日は違った。目の前の男と自分は違う人間なのだとハッキリと自覚できていた。
「どうぞ」
側近の男が小瓶を差し出してくる。男はそれを一口で飲み干した。途端、ターバンに巻かれていた男の髪が伸び始めて、褐色だった肌が白くなる。
「何度見てもこの変化は面白いな、なぁロラン。いや、兄上」
男ーーロランは自分を楽しげに見つめてくる双子の弟を前に、深い吐息を吐き出した。
「言ってろ。それとナタリーには後でお前からフォローを入れておけ」
そう言ってロランは空となった小瓶を側近の男へと返すのだった。
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