臨海
藤井 狐音
臨海
知り合いが熱海で本屋を開いたと聞いてから、ずいぶん経っていた。
その知り合いというのは旅人だった。高校を辞めて日本各地を巡り、様々な出会いを積み重ねてきた人だった。彼と出会ったきっかけは二、三年前に東京であったとある講習会で、本屋を作るという話はその頃から聞いていた。それは試みとして興味深いものだった。熱海に作りたいというのは、旅の中で得た思い入れによることらしかった。
彼を訪ねてきたのは、本、およびそれを取り巻く環境に関する研究のためだった。この研究からみれば、彼は先駆者のような人だった。そんな彼の話を聞きに、春の暇でこの町に来ていた。
間近に海を見るのは、何度目だったか。覚えているのは東京湾、三保ノ松原、それから浦賀。あと一、二度あったかもしれない。いずれにせよ珍しい景色で、行事や家族の集まりではない自発的行動としては、おそらく初めてのことだった。
感動というのは、漠然としたものだった。砂浜に降りる階段の途上に腰掛けて、波の寄せては返すのを眺めていた。まだ午前中ということもあって、濡れたり汚れたりしたくなかった。ただ海や浜がそこにあること、そこで愉しんでいる人がほかにぽつぽついること、それらをぼうっと見ていると、心は穏やかだった。
それからどこへともなく辺りをふらふらと歩いて、昼過ぎには熱海城へ登った。
端的に言えば、俗な商業施設だった。史料もあるにはあるが、地下にはゲームコーナー、上層には露天の足湯まであって、いよいよスーパー銭湯の類に思われた。足湯からは青色の海と、そこへ沈んでゆくように傾斜する熱海の土地が見えた。タオルを買うのが莫迦々々しくて、濡れたままの足で靴下を履いた。地下に降りて、夕方まで筐体と青春をした。
山を降りるとき道に迷って、遅い昼食も摂ったので、店に着いたのは五時頃だった。酒場の一角を借りた、小さな本屋だった。
本を通して、誰もが気の合う誰かと出会えるようにしたい、という話をした。彼は、かけがえのない関係は自分から出会う努力をした人のものだ、というようなことを言った。努力しない人をさえ見捨てたくなくて、彼の言葉は受け入れられなかった。
選書をやっているというので、せっかくだからと電話で母に了承を取ろうとした。しないことになった。本も土産も買わずに帰った。
臨海 藤井 狐音 @F-Kitsune
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