第2話

 その事件が発覚したのは黒谷姫が小学六年生のときだった。中学校で教鞭を執っていた彼女の父親が、約一年間で五人もの少女を殺害していたのだ。殺された少女はいずれも十代前半だった。


 動機は〝耳〟だったという。父親は少女の耳に異常なフェチシズムを持っていた。その歪んだ性欲はずっと昔からあったらしいのだが、当初は耳を隠し撮りすることで衝動を抑えられていた。しかし、いつしかそれだけでは満足できなくなり、とうとう一人目の少女に手をだしてしまった。


 梅雨の細い雨が朝から降っていた日のことだったらしい。仕事帰りに好みの耳をした女子中学生を偶然見つけた父親は、欲望に駆られるままあとをつけていき、人けのないところで少女の首を絞めて殺害した。その後、両耳をハサミで切り取って自宅に持ち帰ったという。


 一人目を殺してタガが外れた父親は、数ヶ月おきに同じような手口で犯行を繰り返した。父親がようやく逮捕されたのは六度目の犯行に及んだときだった。ターゲットにされた少女が自力で父親を振り切って逃走、そのさいに少女は父親の顔を正面からはっきりと見た。警察は少女の協力を得て、父親を犯人だと断定した。


 のちに父親には死刑が言渡され、それはすでに執行された。だが、加害者家族の苦悩は父親がいなくなってからも続いた。


 父親の逮捕は大衆の怒りを煽るようにセンセーショナルに報道された。それをきっかけに黒谷姫も彼女の母親も近隣からひどい嫌がらせを受けた。スーパーやコンビニなどでは問答無用で入店を拒否され、ときには道端でいきなり暴力を振るわれたこともあったという。当時の彼女は関東に住んでいたそうだが、家に石やレンガを投げこんでくる者もたびたびいたらしい。


 その状況を苦にしてのことだったのだろう。彼女の母親は彼女が中学二年生のときに自殺した。家の梁にロープをかけて首を吊ったのだ。遺書には世間への謝罪文だけで、娘の黒谷姫にはなにも書き残していなかった。


 両親がいなくなった彼女は、関西にある祖母の家に引き取られた。素性を隠しての引っ越しだったものの、まもなくして連続殺人犯の娘だと周知された。


 素性がバレても、関東に住んでいたときのようにあからさまな嫌がらせはされていないという。しかし、中学を卒業して高校に通うようになった今でも、彼女は学校の皆にあることないこと噂されていた。また、彼女と親しくしようとする生徒は皆無で、薄っすら無視というのが水面下で続いている。ようするに、敬遠されて避けられている。


 風香は彼女が殺人犯の娘であっても特に気にしていなかった。寛容ではなく他人ひとに興味がないのだ。しかし、皆が無視しているのであれば、同じように無視しておくのが無難だ。自分の気持ちと多少相違があったとしても、決して吹いている風に逆らってはいけない。周囲と足並みを揃えておかないと、こっちにまで悪意が飛び火する。


 ところが、なぜか風香は気まぐれで彼女に話しかけてしまった。しかも、本人は面倒くさい性格をしていそうだし、風香に対して喧嘩腰のような感じもする。さっさと退散したほうが良さそうだ。


「そういや用があってん。もういくわ。じゃあね」


 用があるなんて嘘だが、そう言って立ち去ろうとしたとき、彼女がぽつりと呟いた。


「公園……」


 風香はその声に足を止めて振り返った。


「公園?」

「そう、公園……」

「なにが公園なん?」

「これ……」


 彼女は赤と黒だけで描いた絵を指差した。


「さっき、なにを描いてるのか聞いたでしょう?」


 風香は絵を改めて見た。色味のせいでおどろおどろしい絵だった。


「それ、公園なん? 公園って普通は緑色とかで描くやろ。なんで赤と黒? 血の池地獄的な公園とか?」

「……学校の前にある公園」


 風香はその公園を頭に浮かべた。立派な噴水や遊歩道が設けられているのどかな自然公園だ。


「その絵、あの公園なんや……凄いな。なんというか、センスがほとばしってるわ」

下手へたって言ってくれてもいいよ。公園を赤と黒で描くなんて、自分でもおかしいと思ってるから」

「いや、下手ではないと思うで」


 色合いが変なのは否めないが。


「絵のことはよくわからんけど、なにやら芸術的やわ。描き方も変わってたし」

「描き方?」

「筆を叩きつけるみたいに描いてたやろ。バシバシって」

「私、そんな描き方してた?」

「してたで。自分で気づいてへんの?」


 どうやら気づいていなかったらしい。彼女は首を傾げた。


「でも、ええんちゃうかな。なんか格好いい。油絵を描いてるって感じがする」

「あの……」


 彼女は怪訝な顔をした。


「これ、水彩画だけど。油絵は臭いがきついから、教室では禁止されてるでしょう」

「え、そうなん?」


 彼女の怪訝がさらに濃くなった。


「どうして知らないの? 美術部なんだよね」

「だって私、幽霊部員やし」


 すると、彼女は表情をふっと緩めて微笑んだ。


「そんなに堂々と幽霊部員って言わなくても」


 風香は、あれ? と思った。もの凄く不機嫌そうで、口調もぶっきらぼうだが、笑うと存外に可愛かった。それに、どこか人懐っこい笑顔でもあった。取っつきにくいという印象があったが、そうでもないのかもしれない。普段の風香は他人ひとに無関心だが、彼女とはもう少し話してみたいと思った。


 ただ、幽霊部員の風香は絵のことがよくわからない。だから「話が全然変わるんやけど」と言葉どおりに話題をガラリと変えた。


「ラッキーチョコって知ってる?」


 彼女は知らないという顔をした。


「たまにしか売ってへんねんけどな――」

  

 風香は鞄の中から板チョコを取りだした。


「これがラッキーチョコ」


 パッケージにラッキーチョコという商品名が、真っ赤な極太文字で品なく印字されている。その周囲に過剰に撒き散らされたピンクのハートにも品がない。商品のキャッチコピーなのだろう。ラメの入った青い文字でこう印字されている。


 毎日食べてもハッピー、ときどき食べてもハッピー。


 彼女はなにか言いたげな顔をしていた。風香は彼女の心を察して言った。


「みなまで言わんでもわかってる。見た目はダサい。でも、食べたらめっちゃ美味しいんねんて。だまされたと思って食べてみ」


 風香はパッケージを破ってチョコを三分の一ほどあらわにした。それを「つまらないものですが」と差しだすと、彼女はじっとチョコを見た。


「見てんと食べてみ。ほら、早よ」

「じゃあ……」


 彼女は困惑してようすを見せながらも、チョコを指でつまんでパキンと折った。それを小さな口に入れる。ややあって彼女の目は丸くなった。


「美味しい……」

「そやろ。めっちゃ美味しいねんて。人を見た目で判断したらアカンけど、チョコも見た目で判断したらアカンねん。売り文句の〝毎日食べてもハッピー、ときどき食べてもハッピー〟はほんまやねん。いつ食べても美味しいからハッピーになれるねん」


 風香は少々興奮気味に告げたが、彼女はいたって冷静に尋ねてきた。


「売り文句がハッピーなのに、どうして商品名はラッキーなの? ハッピーチョコのほうがいいと思うけど……」


 言われて風香はパッケージに目をやった。ラメ入りの青い文字で印刷されたキャチコピーを改めて読む。


 毎日食べてもハッピー、ときどき食べてもハッピー。


「ほんまや……なんでラッキーチョコやねん……」




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