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 ユリを殺害した男が逮捕されたのは、私の個人的な強姦事件から一週間が経った後だった。男は三〇代半ばの会社員で、既婚であり、乳児の子どもがいるらしい。男は隣県で起きた看護師殺害事件についても容疑を認めており、彼の逮捕により一連の強姦殺人事件は収束を迎えていた。

 私は、逮捕された男があの夜に自分を襲った男と同じかどうか、見極めようとした。しかし、テレビに映された卒業アルバムの写真や、週刊誌に載せられた目線入りの写真からは判断できなかった。声や腕の太さといった情報を加味しなければ、私が見た犯人の情報と照合できない。

 私はベッドの中で布団に包まれたまま、自分の呼気で曇っていくスマートフォンの画面を上から下へ追いかける。犯人の逮捕を伝えるニュースのツイートに、百二十七件のリプライがついていて、私はそれをひとつひとつ読んでいく。


 既婚でも頭おかしいやつは頭おかしい。結婚が人間性の証明にならないことが証明された。

 奥さんと子どもが、本当にかわいそう……

 これからもこういう犯罪者はどんどん増えていく。不況で社会不安の増大が止まらない。二人の被害者は、アベが殺したようなもの。

 これ女側に落ち度はなかったわけ?


 リプライのすべてを読み終えると、私はパーカーの袖でスマートフォンを拭い、ホーム画面で時間を確認する。今日は二限の講義があるからそろそろベッドから出て、シャワーを浴びなければいけない。別に単位を落としてもいい講義だけど、そろそろ自分の怠惰さに嫌気がさしてもいた。それに、一六時までに提出しなければいけないレポートもある。それらさえ終わらせてしまえば、二年生の前期はおしまいになる。

 じきに七月が終わり、本格的な夏休みが始まる。そこまで耐えきったら、ひとまず実家に帰ろう。そして死んでしまったユリのことや強姦事件について、距離を置こう。時間が私の傷を癒やしてくれるはずだ。

 ユリは死んでしまった。隣県の看護師も死んでしまった。

 しかし私はまだ生きている。これからも生きていかないといけない。それには襲い来る悪意を躱し、はね除けるだけの力が必要だ。彼女たちの死体を悼むだけではなく、踏み越え、目には見えない怪物と戦っていかなければならないのだ。恐れているだけでは何も解決できない。

 私はベッドから這い出て、浴室へ向かう。そして洗濯機の前で服を脱ぎながら、自分の体を精査する。

 尻は下着の締め付けによる赤いゴムの跡がついている。身をかがめると腹回りが脂肪でぽっこりと膨れていた。脚も太股も大きく、重たい。うすい胸板には不格好に膨れた乳房があり、胴体に繋がる腕は細く、頼りない。

 私はシャワーヘッドから噴き出す湯を浴びながら、思い立って右腕をできるだけまっすぐ、遠くへ伸ばしてみる。その腕は細く頼りなく、そして生白い。手の甲を天井に向けたあと、ひっくり返して手首の内側を見た。

 そこは一週間前に、男に強く手首を掴まれた場所だ。そのときは赤い跡が残っていたが、今はすっかり消え失せて、暴力の痕はどこにもなかった。

 あのときのことを思いだすと、未だに体の一部がすっかり冷たくなっていく。やけどするぐらいに熱くしたシャワーの湯も、それらに触れはするものの、けして溶かすことはない。むしろ傷の外周をなぞることで、温まらない傷の痛みを強調しているようでもあった。

 それでも私は辛抱強くシャワーを浴び続ける。このシャワーのひとしずくが、私につけられた傷から少しでも遠ざけることを願って。


 結局私は二限目に出席することが叶わず、お昼の十二時ちょうどになる少し前に、B二〇六講義室にたどり着いた。夏休み前になるとテスト期間に入るため、学内に人が多くなる。そのためか、講義室はいつもよりも人がいた。めいめいに昼食を摂ったり、テキストを広げ、自主学習に励んだりしていた。

 混み合っている中でも、私が座れそうな席を見つけると、そこへ腰掛けて生協で購入した海苔弁当を広げて食べた。

 今は隣にユリはいない。目の前にサンドイッチをつまむ細い指はない。肩に掛かる長くてきれいな髪の毛も、白くてなめらかな首も、やさしい笑みもない。私が噛んでいるお新香の咀嚼音と、学生のざわめきがあるだけだった。

 ひとりで食べる海苔弁当は、なにも味がしなかった。空腹は感じるものの、それらを鎮めるために米と佃煮と海苔を詰め込んでいるのであり、おいしいな、とは思えなかった。

 周囲のざわめきの中から、時折ユリの話が聞こえた。しかしそれも注意して聞き取っていなければどういう類いのものか判断できず、私はすぐに耳を傾けなくなった。それよりも考えるべきことがたくさんある気がした。

 ユリが死んでしまって悲しい。犯人に憎しみを覚える。この世界に絶望する。真夜中に歩いている女にも落ち度がある。私も男に襲われた。強姦をする男の気持ち。男性器が抱える根本的な苦しみ。女性器が抱える埋めることのできない空虚。ユリをかき回して乱した男の腕と指。ユリの悲鳴、痣と流血、むき出しの裸、切断された頭部。

 ユリとハルマが手をつなぎ、抱き合う。

 彼らが結ばれた未来。あるいは、結ばれなかった未来。

 私はそれらひとつひとつを思いつくままに考えたが、そのどれもが明瞭にはならなかった。洗っても洗っても泥がついていて、どの引き出しにもしまうことができない。

 薬液のなかで溺れて死んでいった蜘蛛。蜘蛛の死体に向けて繰り返し薬液を噴く指先。アダルトDVDの中で犯されていた女。肉便器、肉便器、肉便器。差し出された男根をしゃぶる口元。レールの中に落ちている、腐食した女の手足。古いトロッコがきしむ音。子どもが私を見つめる、無垢な視線。女の手足、それを押さえつける男の腕。ポテトチップスをつまんだ指を嘗める、私の舌。

 私は弁当をすべて食べ終えると、ポリ袋の中に使い終えた割り箸と一緒に詰め込んだ。そして、テキストや筆記用具を詰めたリュックサックを持ち上げ、講義室を後にした。あと十分ほどで昼休みが終わり、三限目が始まろうとしていた。

 B二〇六講義室を出て廊下を抜けようとしたとき、掲示板の前にハルマがいた。ハルマは友人と思われる男子学生と談笑していた。私は彼に歩み寄り、声を掛ける。

「ハルマくん」

「ああ、***さん。ひさしぶり。どうしたの?」

 ハルマは私に声を掛けられたことについて、少し驚いたような顔をしていた。しかしそのような表情はすぐに消え失せ、人好きのする顔で私に話しかける。

「ううん。ユリのこと」

 私が「ユリ」と口にすると、彼は痛ましい表情をした。ハルマの隣にいる男子学生も、こわばった顔をする。

「犯人、捕まって良かったね。とりあえず一段落ついたみたいで、ほっとした」

 私はそれが作られたものだとわかるように、溌剌とした声と笑顔をハルマに向けた。ハルマは私が意図するものを受け取ったようで、控えめな微笑みを私に寄越した。

「そうだね、ありがとう」

「うん、本当に良かった。それだけ言いたくて」

 私はこれ以上ハルマとその友人との邪魔にならないように、手を振ってその場を後にした。ハルマも、またね、と言いながら私に手を振り返す。去り際に、だれ? と男子学生がハルマに問いかける声が聞こえたが、それに対するハルマの返事が聞こえないうちに、私は教養棟の自動ドアのボタンを叩くように強く押し、扉をくぐり抜けた。

 外はすでに夏が来ていた。空はきれいに晴れていて、日光が駐輪スペースや噴水近くにあるベンチに向けて照りつけていた。広場の隅にある日陰で、ダンスサークルがレゲエを流して出し物の練習をしている。また別の日陰では、男女混合のグループがジャグリングに興じていた。私の横を、化粧で顔を白く塗った女子学生が足早に通り過ぎていく。私の目の前を自転車に乗った男が横切っていった。

 私はそういった光景のすべてを目にしながら、自宅へ帰る道をたどっていた。なにもかもが眩しいと思い、下を向き、側溝に嵌められた蓋の穴の数を数えながら歩いた。


 私は、自分のアパートに着くとすぐ、靴を脱ぎすて鞄を放り投げ、玄関と廊下続きになっている台所へ向かった。そしてシンクの下にある扉を開き、包丁掛けに入れてある包丁を抜き取った。

 私はその包丁を逆手に持つと、左手で自分のうなじにかかった髪の毛を持ちあげる。自分で見ることはできないが、そこには私を長い間苦しめた腫瘍があり、今も外気を浴びながら堂々と腫れ上がっているはずだ。

 私は右手をゆっくりと頭の後ろへ移動させ、刃を腫瘍にあてがった。手元がおぼつかない中で行ったので、包丁の刃が耳の下や顎の下に何度か当たったが、しばらくすると自分が狙った場所に刃を当てられるようになった。刃先は腫瘍の根元を狙い、その薄い刃をあそびなく患部に当てている。

 そのことを確認すると、私は息を深く吸い込んでから呼吸を強く止め、親指で患部を押さえ、腫瘍の根元に刃を差し込んだ。

 痛みはすぐには訪れなかった。それよりも先に、血液が首の後ろから前へ、鎖骨を伝って腹の方へ流れていくのを感じた。熱い血潮は首を通って、いくつかは空っぽのシンクのなかに、でんでんと音を立てて落ち、赤く丸い模様を描いた。流れ落ちた血液を認めると同時に、鈍い痛みが後からやってきたが、私は刃の勢いを止めることなく、じゃがいもの芽をえぐり取るように、腫瘍の根元へ包丁の顎を差し込み続けた。

 包丁に入れる力を込めると、それと比例するように流れ落ちる血液の量は増え、痛みも増していく。私は右手で力強く包丁を動かし、腫瘍の根元を掘り進め、左手はうなじに爪を立てて強く押さえつけていた。

 シンクに、赤い血液以外に、透明の液体が混ざった血液も落ちていく。それは糸を引いていて、自分の口元から落ちた唾液だということに気づく。痛みをこらえるために歯を強く合わせていて、あふれてくる唾液をすすり上げることを忘れていたのだ。私はこぼれてくる唾液を拭き取る余裕もなく、流れるままシンクへ落とした。それらは血液と混ざり、筋を作って排水溝へ流れていく。

 首の後ろは、痛みよりも熱さがあった。それはかさを増して膨れ上がっていくが、私はその痛みにひるむことなく、むしろ力を込めて包丁の顎を進めた。少しでも手を止めてしまえば、もう刃を前に進めることはできなくなる。そういう恐れに突き動かされるように、私は刃を前に進め、手探りで腫瘍と自分を切り離そうとする。

 刃の軌道は歪に進みながらも、やがて腫瘍の周りをひとめぐりした。それでも、腫瘍の根元は深く、取れそうにない。私は包丁を突き動かし、うめき声を上げながら肉を掘った。

 その甲斐あって、次第に腫瘍の根元がぐらぐらと揺れてきたので、私は包丁をシンクの中へ投げ捨て、左手でシンクのへりを強くつかみ、右手で腫瘍をつかんで、力を込めてちぎりとる。ブチブチという肉の裂ける音に怯みはしたが、不思議な興奮が体の中に満ちていたので、強い痛みを感じることなく、腫瘍をもぎ取ることができた。

 腫瘍が自分の体から離れたとき、あったのは痛みよりも喪失感だった。嘔吐をした後のような爽快感と、失ったものへの悼みがそこにあった。

 私は血で濡れた右の拳を体の前にもってくると、ゆっくりと指を開いた。そしてその中には、ずっと私の首の後ろで転がっていた腫瘍があった。それは小ぶりで固く、締まった身をしたぎんなんのように見えた。血液と肉にまみれているが、たしかな芯をもって私の手のひらの中で転がっていた。

 あのヤブ医者め、と私は毒づく。リンパ節の腫れなんかじゃなかったじゃないか。

 そう、私を苦しめていたのは、このぎんなんだったのだ。

 このぎんなんこそが、ユリを強姦して殺害し、ハルマを悲しませているのだ。

 私は間違いのない勝利を確信し、闇に満ちたシンクの中へ向かって微笑むと、手のひらの中でもてあそぶように、何度かぎんなんを転がした。そして思い切り背骨を曲げて後ろへのけぞると、口を大きく開いてそれを放り込み、味を感じないように舌に乗せずに奥歯の間に挟み、力を込めてかみ砕いた。

 ぎんなんは歯ごたえを感じさせながら、すぐに細かく割れて口中に広がった。私はそれらの破片を舌で中央にかき集め、勢いよく飲み下す。

 自分の体から切り取った腫瘍は、なんの味もしなかった。少し苦いような気もしたが、それは唾液と血液の味であるようにも思えた。私は右手で、血が流れ続けるうなじを強く押さえつけながら、左手で強くシンクのへりをつかむ。肉をえぐった痛みは減ることなく、より強さを増していくように思え、私はうめき、所在なくつま先を浮かせ、かかとを床に押しつけて痛みを逃すようにした。

 しかしそれでも、私は自分から腫瘍を切り取れたことに爽快さを覚えていた。めまいを覚えるほどの強い痛みが、汚れた自分自身を浄化していくようにさえ思えた。私はシンクにすべての体重を預けると、できるだけ自分の体を固く、小さく丸めこみ、感じる痛みを逃がすことに執心した。

 平日の昼下がり、玄関の窓から強い日の光が室内へ差し込んでくる。陽光は私のうなじを照らし、熱く焼き焦がしていた。

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ぎんなんを埋められて トウヤ @m0m0_2018

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