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 平日、晴れた日の午後のことだった。

 そのとき私は、二限目の必修講義を終えて帰途についているところだった。大学から最寄り駅に続く長い坂を、音楽を聞きながら下っていたとき、右肩をとんとんと叩かれて、振り向く。

 そこに立っていたのは、ハルマだった。ハルマは少し体を斜めにして立っていて、長身を持て余しているように見えた。

「あれ、ハルマくん」

 ハルマは私の返事に、力なく微笑んで答えた。前回、ユリとの昼食時に会ったときよりも、だいぶやつれて見えた。そうだ、彼は恋人を殺された人間なのだ。今回の事件で、最も憔悴している人間のひとりに数えてもいいはずだ。

 言葉に困った私が、それでもとりあえず、ユリのこと、と話し始めると、ハルマは首を振り、右手で先を促し、駅まで一緒に歩こう、といった。

「オレさ、こんなでも一応ユリの彼氏だったからさ、警察から取り調べ受けたんだよ」

 それは、青空の下で話すには、あまりにも暗い話題だった。

「あの日、ユリと何時何分に会ったか。何時何分に別れたか。ユリのスマホに残ってた、最後のラインのやりとりについて。最後の通話記録について。ユリはオレ以外に恋人はいるそぶりはあったか。ストーカーや変質者に心当たりはあるか……」

 ハルマは警察に聞かれた事柄をひとつひとつ挙げていく。それらは私よりも厳しく、細かく聞かれていた。また、ハルマの弱り切った姿から、取り調べは長時間にわたり、彼の精神が大きくすり減らされたことが見て取れた。ハルマの声はいつもは溌剌としているのに、今日は張りがなく、肺から空気をなんとか押し出しているように聞こえた。

「別にさ、取り調べされることはいいんだよ。もしオレが警察だったら、オレみたいな人間をまっさきに疑うと思うから。だからさ、別にそれは、本当にいいんだけど――」

 ハルマはそう言って大きな右手の平を広げ、自分自身の顔半分を覆った。しばらく言葉に詰まっていたので、この往来で泣き出すのではないかと私はひやひやしたが、徐々にその手のひらが口元から顎へ向かって下ろされていくだけで、感極まったわけではないようだった。

「刑事から質問されるたびにさ、どうして何もしてやらなかったんだ、って責められてる気がするんだよ。あの日、オレ、ユリと大学から帰ってるとき、オレの車にユリを乗せたんだ。それで、ユリがここでいいっていうからさ、ファミマの前で下ろしたんだ。それで、コンビニに入っていくユリを最後に見たんだ。あのとき、ユリを家の前まで送ってたらって、いつも思うんだ」

 ハルマは私の方を見ないで、独り言のように、ユリが殺されてから今日までのあいだに起きた出来事を私に向けて語りかけてくる。

 食事が喉を通らないこと、講義にひとつも出席できていないこと、ユリの葬儀に、出席できなかったこと。

「ユリの葬儀は家族うちだけで済ませたって聞いた。オレは出られなかった。家族に紹介するほど、ユリと長く付き合ってなかったから。でも、今ではそれでよかったと思ってる。もしユリと家族ぐるみで付き合ってたら、オレ、マジで自殺してたと思う。親御さんに顔向けできないだろ。殺されても文句言えないよな」

 まあ今でも自殺したいんだけど、とハルマは付け足す。それはとても早口で小声だったが、聞き間違えようのない言葉だった。

 ハルマは、私と話しながら右手で車の鍵を弄んでいる。長い人差し指の先から、中指の先、薬指の先とキーリングが移動し、そして再び人差し指の根元へ戻る。その鍵が鳴る、がちゃがちゃという音が会話の合間に大きく響いた。

 私は、ハルマの話に相づちを打ちながら困惑していた。ハルマと私は顔見知り程度の仲だ。共通点はユリだけ。ハルマと私は、本来こんなふうに長話をしないのだ。

 大学から離れたところにある駅は、坂道を下ると信号の待ち時間が長い横断歩道があり、それを渡ったところにある。ハルマは駅の駐車場に自分の車を停めてあると言った。そこにつくまでの辛抱なのだ、と私は自らに言い聞かせる。

 ハルマの思い出話は、私を置いてどんどん進んでいく。ユリと一緒に夏祭りに行く約束をしていたこと。そこで指輪を贈ろうと考えていたこと。ユリは料理がとても上手いこと。ユリは車の教習所に通っていて、免許を取ったら車を買うと話していたこと。

 私はそれらに曖昧に相づちを打ちながら、ハルマに歩みを合わせた。ハルマは足が長いが、私に合わせて歩みを遅くしているため、ひざから下の長さを持て余し、ぎこちない歩き方をしているように見えた。

 やがて坂道を下り終え、私たちは歩道用の信号で立ち止まる。そのとき、ハルマは思い出話をやめ、ふと話題を変えた。

「犯人はさ、本当に無差別で被害者を選んだなら、どうしてユリを選んだんだろうって思うんだ」

 今までと声の調子を変えて話し出したので、私は右隣に立つハルマを見上げる。すると、ハルマも私と視線を合わせ、高い位置からのぞき込むように話していた。

「ただ強姦して殺害するだけなら、ほかの女子大生だってそんな変わんないだろ。だから、たまたま犯人に目をつけられたユリは、ただ不運だっただけなんだ。それで、そんなユリと付き合ってたオレも同じくらいどうしようもなく不運なんだよ。どうして、オレばっかり。――そんな風に考えて、大学行ってほかの女見るとイライラするんだ。どうしてユリなんだ、ユリじゃなくて別の女だったら、こんな苦しい思いしなくてすんだのに」

 ハルマは私から見て、太陽の逆光になる位置に立っていた。彼は立ち振る舞い、顔の表情にこそ生気がなかったが、よく見ればまなざしには怨念に似た力がこもっていた。でもそれは私の見間違いだったかもしれない。少し目線を外せば、再び彼は恋人を殺された哀れな男になった。

 彼は私に合わせていた視線をずらし、赤く点り続ける信号をまっすぐ見つめる。

「でもさ、こんな風に考えるの最低だろ。どうしてオレなんだ、なんてさ。一番つらいのは、殺されたユリと、ユリの家族なのにさ」

「ううん」

 私もハルマから視線を外し、同じ歩道用の信号を見つめる。赤信号は未だ変わらず、赤く点り続けている。

「私だって同じこと考えるよ、きっと。自分を責めてもつらいだけだよ」

「そうかな」

 私の慰めを受け、ハルマが少し明るい調子の声を出した。

「***さん、サンキュな。こんな話聞いてくれて。ユリと共通の知り合いがそんなにいなくてさ。たまたま駅までの道で見かけて、話したくなったんだよ」

 話題が変わりかけたところで信号が青に替わり、私とハルマは歩き出す。ハルマの歩調は私を引き離すように、長い足を生かし、距離をとって進み始めた。そして、私に振り向きざまに手を振る。

「またね」

「うん」

 ハルマは歩行者の群れをかきわけ、あっという間に横断歩道の向こう側へ歩んでいった。私は縞模様の真ん中で取り残されたまま、もたつく足をなんとか前に出し、道路の向こう岸へとたどり着く。その頃にはハルマの姿はとっくに見えなくなっていて、信号は再び赤に変わっている。私は彼の言葉を反芻し、心臓の拍動を早めた。落ち着かない気持ちのまま、もうすぐ来る電車に間に合うよう、足を前に出し続ける。

 私は駅の階段を上がる途中、うなじに手を当ててみる。そこでは、先日できた腫瘍がいつもよりも痛みを発していて、熱を持っていた。指先で押しこんでみると、肥大したようにも思える。いたい、と私は声に出さず、口の中でつぶやく。

 強姦して殺されたのが、

 ユリじゃなくて、おまえだったら良かったのに。

 ハルマはそう言いたかったのだ。だから私に声を掛けてあんな話をしたのだ。

 私は知らず、自分の両手が細かく震えていることに気づく。

 私はハルマに恨まれている。そう思うと彼が怖くて仕方がなくなった。

 ハルマは悪魔の目の前に、ユリの代わりに私を差し出したい。そして私の肉が啄まれるさまを眺めながら、ユリと手をつなぎたい。暖かな抱擁を交わしたい。

 けれどもそれは叶わない。

 だって、強姦されて殺されたのはユリであって、私ではないからだ。

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