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「リンパ節が腫れてるだけだと思う」と医者は言った。
その医者は、ぼさぼさの髪の毛によれた作業着、足下は灰色のクロックスを履いていて、顔には疲れが滲み出ていた。連日押し寄せる患者に嫌気がさしているのだろう、私の診察もおざなりなものだった。
私は顔を上げ、医者に晒していたうなじに再び髪の毛をかける。
「膿がたまっているとかではないのですか」
私がそういうと、医者はうっとおしそうに首を振った。
「今の時点では正直なんとも言えない。抗生物質出しておくから、それ飲んでもよくならなかったらまた来て」
それだけを言い終えると、医者は早く出て行けというように私に背を向け机に向かい、何事かを書き始めた。私は鞄と上着を持ち、ありがとうございました、と告げ、逃げるように診察室を立ち去った。
待合室のソファに座って会計を待つあいだ、私は自分のうなじ――襟足に隠れている、丸くて固い、ぽっこりと膨れた腫瘍を指で触った。押し込むと鈍く痛み、首を下に曲げると腫瘍を起点に引き攣るような痛みが走った。
数日前から私のうなじに腫れ物ができて、それが痛むので皮膚科を受診したのだ。
そうしながら、私は手元のスマートフォンでリンパ節の腫れについて調べる。
リンパ節は、体の至る所にあり、体の代謝を助けている。主な場所は、首の下、足首、頭の後ろなど。風邪をひいたときや強いストレスを感じたとき、腫れ上がることがある。
どのサイトを見てもだいたい似たようなことしか書かれておらず、私はある程度情報を集めたあとで、スマートフォンをスリープさせた。ちょうどそのときに受付から名前を呼ばれたので、私は鞄から精算のために財布を取り出し、ソファから立ち上がった。
強いストレスを感じる出来事なら、心当たりがあった。
一週間前に、ユリが何者かに殺されてしまったのだ。
ユリは殺された。それも、強姦された後、首を絞められ、頭部と胴体を切り離された状態で見つかった。死体は県内の一般道路脇にうち捨てられていたらしく、全国ニュースで大々的に報道された。
先月の看護師殺害事件と犯人が同じだとする見方もあれば、手口をまねただけで、別の人間による犯行だとする見方もあった。
ユリは大学と実家が近いので、実家からバスで大学に通っている。その帰り道に攫われ、暴行および殺害されたのだろう、というのが警察の見解だった。
ユリが襲われ、殺されてしまったその日の昼、面会していた人物として私も事情聴取を受けた。事情聴取といっても、同じ言葉をただ繰り返すだけで、捜査の進展に目立った協力はできなかった。警察署の中は重く、堅苦しく、緊張感で漂っていたが、私を担当したのは女性の警察官だったので、それだけは救いだった。
警察よりもいやだったのは、マスコミだった。なにかユリにまつわる情報はないかと部屋まで押しかけ、インターフォンを連打された。どこから聞き出したのか、私の個人電話番号に電話を掛けてきて、金銭と引き換えにユリの交友関係について教えてくれと持ちかけられたときは言葉を失った。私には彼らが、ユリの屍肉を啄む鴉のように思えた。長く鋭いくちばしを持ち、柔らかくなった腐肉をその先でつついてはちぎって、食らい尽くすのだ。
私はユリが殺されてから、大学に行くことをやめていた。教養講義はみな事件のあおりを受けて休講になっていたし、専門科目の講義も、今期は単位を落としたところで特に問題はなさそうだった。
私に必要なのは、精神的ショックを癒やすための時間だった。
いつも通り、ユリと共に昼食を取った同日の夜、ユリは攫われて殺害された。
私は車に引き込まれ、男に強姦されたユリの絶望を思う。そして殺害され、全裸に剥かれてうち捨てられた苦しみを思う。春先とはいえ夜は冷え込む。外気に血の通わない遺体を晒されて、ユリの魂はいったい何を思うんだろう?
そしてそれと同時に、私の中にもうひとつの考えが浮かぶ。私はその考えに支配されると、手足の先が冷たくなって、思うように動けなくなる。
私とユリは代替可能な存在である。
彼女は私だったかもしれないのだ。
首の後ろに違和感を覚えたのは、ユリが殺された知らせを受けてから二日後のことだった。就寝前に歯を磨いて口をゆすいだとき、頭を下に向けると、後頭部から首にかけてひきつるような痛みが走ったのだ。それは何者かに髪の毛をつかまれ、強く引っ張られているような痛みだった。痛みを感じる部分に指を這わせると、腫れ上がったできものに触れたのだ。
私は診察代金の精算を終えると、皮膚科の隣に併設されている薬局へ向かった。処方箋と手帳を受付へ渡し、ソファに腰掛けて薬剤師からの処方を待つ。
薬局の中はあまり混み合っておらず、二人の子どもをつれた若い母親と、サラリーマン風の中年男性が順番を待っていた。私も空いているソファに腰を掛け、スマートフォンでツイッターの確認を始める。
そのとき、二人の子どものうち、弟と見られる男の子が私の足下へ所在なく、ふらふらと歩み寄ってきた。年齢は二歳か三歳ぐらいだろうか。その純真な目が宙をさまよって私の視線とかち合った。私は彼へ向けて、敵意がないことを示すためにささやかに微笑んだ。
それを見つけたのか、五歳ぐらいの、姉と見られる女の子がこちらへ寄ってきて、小さな腕を広げて母親の元へ行くように誘導した。
やがて会計を済ませた母親が、子どもたちの不在と私の存在に気づく。そして、すみません、と私へ向けて穏やかに微笑んだあとで姉弟の名前を呼び、手招きをする。子どもたちは即座にその声に反応し、母親の足下へ駆け寄っていく。
私は母親と子どもたちが自動ドアをくぐって外を出て行くのを見届けると、俯き、首の腫瘍へ右の人差し指のはらを当ててその所在を確認した。腫瘍は先ほどよりもその存在感を増し、わずかに大きくなり、痛みもかすかに増したように思えた。私は空いた左手でスマートフォンの画面をスクロールさせながら、乾いた唇を前歯で噛む。
ややあってから、薬剤師から自分の名字を呼ばれ、私は置いていた荷物をまとめて席を立つ。抗生物質なんか効くわけないのに、と思いながらも、私は相づちを打ちながら薬剤師の話を真面目に聞くふりをした。
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