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小さい頃、教育テレビで放映されていた、虫を紹介する番組をよく見ていた。
その中でも、今でも覚えている回がある。蜘蛛を特集した回だ。昆虫をデフォルメしたポップなキャラクターが、蜘蛛の習性をかわいい声で解説していく。
蜘蛛は網をかけて猟をすること。蜘蛛の網は横の糸だけに粘り気があり、その粘り気で虫を捕らえること。網をかけた蜘蛛自身は粘り気のない縦糸を伝って移動するから、自分で作った網に絡まらないこと。蜘蛛の糸は透明で、かつ光で見えづらくなるような場所を選んで張られること。蜘蛛は餌になる虫が捕まるまで、巣の隅で息を潜め、しずかに待っていること。
一番強く覚えているのは、蜘蛛の補食シーンだ。蜘蛛の巣に揚羽蝶がひっかかっていて、蝶は大きな羽をぱたぱたと力なく上下させている。その羽は鮮やかな黄色をしていて、画面の中心でひときわ目立っていた。
やがて蝶のところへ蜘蛛がやってくる。蜘蛛は自分の身体よりもずっと大きい揚羽蝶の身体へ向けて白い糸を吐き出し、拘束を始めた。揚羽蝶は糸に巻かれて白い繭のようになり、糸と糸との隙間から、時折その脚を覗かせるだけになった。蜘蛛はそれでもまだ満足せず、細く長い手足を巧みに使い、蝶の身体に糸を巻き続けている。
その後画面が切り替わり、南米の奥地にいるという奇抜な色をした蜘蛛が映された。しかし、私は先ほどの映像が忘れられず、衝撃を受け、しばらく動けなくなったことを覚えている。
あの後、揚羽蝶は一体どうなってしまったんだろう。蝶はまだ糸の内側で脚を動かしていたから、あの蝶は生きたまま蜘蛛に食べられるのだろう。
私は二股に分かれた蜘蛛の堅い顎が、緩やかに膨らんだ蝶の腹を噛み砕くところを考える。穴が空いた蝶の腹からは体液が零れ、内臓と肉が見えている。蝶は何かに縋るよう、脚を遠くへ伸ばそうとするが、やがてそれらも粘ついた糸に絡まり、動かなくなっていく。
そうだとしたら、蝶はあの繭の中で、どんな絶望を感じていただろう?
そして、彼らのやりとりを見つめる、黒くて強大なカメラレンズのことを思う。もしかしたら、あの揚羽蝶は番組のスタッフが捕まえたもので、蜘蛛の捕食シーンを撮るためにわざとあの網にひっかけられたのかもしれない。自らの繊細な羽を摘まむ遠慮のない指があり、為す術もなく、捕食者が待つ網に掛けられる。
そうされたとき、蝶はいったい何を考えていたんだろう?
自らが殺され、辱められる場面を記録に残し、広く伝えるためにあの揚羽蝶が犠牲になったのだとしたら、こんな残酷な話があるだろうか。
どうして私は、あの可哀想な揚羽蝶ではないんだろう?
どうして私は、あの蜘蛛には生まれなかったんだろう?
耳に挿したイヤフォンの向こう側から聞いたことがない音が聞こえて、私は歩みを止めた。いま聞いている音楽の中にはないはずの、ぴーっ、ぴーっという音。発生源を求めて周りを見ると、自分の右側で万引き防止ゲートにつけられた赤いランプが点滅していた。
それを目にして、自分の体温が上がるのを感じ、私は手元を見る。
そこには、レンタルDVDが入った黒い手提げがかかっている。後ろにあるセルフレジで会計を済ませたものだ。けして万引きなどではない。私の横を、ベビーカーを引いた若いお母さんが怪訝な顔をしながら通り過ぎていく。
やがて、ブザーを聞きつけた男性の店員が私の元へ早足でやってきた。私はレンタルしたDVDを手提げ袋から取り出し、自分の無罪を証明しようとした。店員は私の手元を見て察したようで、すぐに笑顔を作る。
「ああ、タグの外し忘れですね」
店員は私からDVDを受け取ると、DVDレンタルケースについていた、カーテンフックに似た青いプラスチックの棒を抜き取った。そして、再び手提げ袋に入れると、ゲートの前にかざして、もうブザーがならないことを確認し、私に渡す。
「もう大丈夫ですよ。お時間を取らせて申し訳ありません」
すみません、と私が謝ると、いいえこちらこそ、と店員さんはあくまで低姿勢を貫き、私に一礼までしてくれた。私もつられてお辞儀をして、その場を急いで立ち去る。
私の心臓は早く打っている。万引きを疑われたと思った。でも店側の気持ちの良い対応のおかげで、すぐに解放して貰えた。
私は店員――彼が、私をひと目みたときに和らいだ顔を思い出す。あれは安心した笑顔だった。
あのとき、私は見た目だけで「この人は万引きしないだろう」と判断されたのだ。
私は自分が若い女性の格好をしていてよかったと思った。もしもこれが浮浪者風の男だったら、私はすぐに解放されなかったかもしれない。
本当に、タグの外し忘れですか?
そのレンタルDVDを、故意にレジへ通さなかったんじゃないですか?
知らず、私は曇天の空の下を駆け出していた。右手にはレンタルDVDが入った手提げをかけて、左手にはジュースやスナック菓子が入ったレジ袋がかかっている。それらはこれからDVDを鑑賞しながら食べるための菓子だ。私はこの後、自室に戻り、ベッドに腰掛け、テレビを前に飲食をする自分の姿を想像する。
それはとても心温まる光景のように思えた。
床も壁も黒く塗られた部屋に、不自然にライトアップされた分娩台が置いてある。その分娩台に、女がひとり寝かされていた。女の髪は茶色に染められていて、肩甲骨を覆うほどの長さをしている。服は着ていない。ビビッドピンクのハイヒールだけを履かされていた。顔は鼻の下から顎までが黒色のビニールテープで覆われている。両腕は持ち上げられ、頭の上部で固定され、手首に黒い革製の手錠をはめていた。両膝は男の太くて醜い、芋虫のような指によってつかまれ、左右に大きく開かれている。そのせいで女の陰部は丸見えになっているが、そこには荒いモザイクが掛かっていた。
その場所へもうひとり、全裸の男がやってきた。ひきしまった女の体とはちがい、男の体は腹も尻もたるみ、出っ張っていた。頭には目の部分だけ穴が空けられた茶色い紙袋をかぶっている。
紙袋男は人差し指と中指を揃え、モザイクの中へつっこんだ。男が腕を激しく動かし、女の腹の中を荒らしている。女の太ももは脂肪で柔らかく膨れていて、両膝を上下させるたび、ぶるぶると画面の中で揺れていた。別の男は分娩台の後ろから女の胸を乱暴に揉みだし、それから乳首をこねていた。女はこねるリズムに合わせて首を振り、ビニールテープ越しに啜り泣きのような嬌声を漏らした。
これは店員に笑って見過ごされたDVDの中身だ。私はこのようなDVDをひんぱんにレンタルしては鑑賞している。
画質の荒い動画の中で、女優たちは多様な方法で嬲られる。縄で縛り付けられ、罵倒されて鞭で叩かれるもの。感電させられ続けるもの。箱状のかごの中で不格好に拘束されるもの。馬に見立て、荷車をひかせられるもの。
私はリモコンを手に取り、右向きの黒い三角ボタンがふたつ並ぶ「スキップ」ボタンを押下する。
チャプターが切り替わると、今度は四つん這いになった女が映されていた。ひっくり返された四本脚のテーブルに、手足をそれぞれ拘束されているのだ。唯一、頭と首だけが上下左右に動かせるようだった。
また、女は首輪を嵌めていた。そこにはB5サイズほどの白いプラカードが掛かっており、プラカードには手書きの油性マジックで「肉便器」と書かれている。
まもなく、女の目の前に紙袋男が立つ。そして、少し腰を落として女の口元にペニスを差し出した。女が口を開くと、すぐさまペニスを押し込み、腰を振って喉の奥まで突き入れた。
もうひとりの男は、後ろから女優の尻を手の平で叩いていた。肉と肉がぶつかる破裂音が部屋中に響き渡り、女優は叩かれるたびに男根が詰まった喉で悲鳴を上げる。そのたびにぶら下げられたプラカードが前後に揺れた。
肉便器。肉便器。肉便器。肉便器。肉便器。肉便器。肉便器……。
いま、私がベッドに座っている部屋は暗い。電気を点けず、テレビの液晶から出る光と傍らに置いたスマートフォンの光だけが煌々と輝いている。私は私の姿を見ることはできないが、暗い室内の中で液晶の光でぼんやりと青白く顔を照らしている私は、異様な姿をしているだろう。私は脇に置いたポテトチップスの袋へ手を突っ込み、三枚を指で挟んで口元へ運ぶ。それらをぱりぱりと咀嚼し、嚥下する。そして油脂に濡れた指を親指、人差し指、中指の順番に舐めとっていく。
きっと、私の姿は妖怪のように見えるに違いない。
女優の痴態を眺めながら、私へ笑顔を向けてくれたレンタルビデオ店の店員を思い出す。彼は私のことを疑いもせず見逃してくれたけど、今の私の姿を見たらどう思うだろう。
こうしてアダルトDVDを繰り返し再生しては愉悦に浸る女だと知っても尚、私に快く対応してくれるのだろうか?
私はポテトチップスをつまむ指を止め、ふと左腕の袖をまくって自分の手首を見る。
そこには、男に掴まれた痕も、手錠を巻かれた痕もない。まっさらに無傷で、見慣れたほくろがいくつか落ちているだけだ。
私はそのことをどこか信じられない気持ちで、まじまじと自分の左腕を見つめた。
私の手足は、まったく無事に存在している。
すぐそばでは、女の手首が囚われたままになっているというのに。
ちょうどそのとき、液晶の向こうで、女優が男根をしゃぶるのをやめていた。唇と鼻の穴から白く濁った体液を滴らせながら、その粘り気に噎せ、咳き込んでいる。
女優は顔を上げ、許しを請うような目で紙袋男を見上げた。紙袋男はそんな女優の右頬を平手で打った。新しい破裂音が狭い部屋中に響く。女優の頬は赤く腫れ上がり、痛みに耐えるようにうつむいた。彼女の唇からは体液が糸を引いて落ちていく。
落ちた体液は黒い床に落ちて、点々と水玉模様を作っていた。
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