ぎんなんを埋められて

トウヤ

1

 蜘蛛を見つけた。指先に乗るくらいの、小さな蜘蛛だ。

 その体はとてもよく部屋の空気になじんでいて、少し目を離せば見失ってしまう緊張感があった。私は直ちに衣類用の芳香スプレーを手に取ると、しゃがみこんで噴出口を蜘蛛へ向け、強く引き金を引いた。そうすると、爽やかな香りのする薬液が蜘蛛の巣全体にかかり、薬液を浴びた蜘蛛は巣の中心で暴れ出す。そして私という虐殺者から逃れようと、尻から糸を出して遠くへ逃げようとする。

 私はそれを阻むために、二度、三度と引き金を引いた。そのたびに薬液が噴霧され、蜘蛛の巣はまんべんなく、しっとりと薬液で濡れていく。やがて蜘蛛は濡れた糸から足を踏み外し、力尽きたようにぽとりとカーペットの上に落ちた。

 それでもまだ息があるようなので、私は落ちた蜘蛛へむけて、更に薬液を噴き出し続ける。五回、六回。カーペットの毛足も薬液でしっとりと濡れてきて、蜘蛛は脚を体の中心に向けてぎゅっと固く丸めると、その濡れた草むらの中で動かなくなってしまった。しかし、私はそれでも引き金を引き続けた。八回、九回、十回、十一回……。数えることが億劫になったころ、ようやく手を止めた。もはやカーペットは薬液を吸い込みきれずに小さな水たまりを作っており、蜘蛛はその水たまりの中心で力なく浮かんでいた。

 私は蜘蛛の駆除に成功したのだ。

 私はそのことを確かめると、今度はティッシュペーパーを箱から五枚ほど引き抜き、それらをすべて蜘蛛に被せ、つまみ上げる。うすいティッシュペーパーも薬液で濡れ、しっとりと重たくなり芳香を放った。そして摘まんだ指をひっくり返すと、蜘蛛は窪んだティッシュペーパーの中心にその体を埋め込んでいた。私はティッシュペーパーをゴミ箱に捨てる。

 そうすると同時に、私の中である思いが浮かぶ。薬液をかけられ続けた蜘蛛は、いったい何を考えていたんだろう。ある日、前触れなく侵略者に見つかり、わけのわからない器具を持ち出されて殺される蜘蛛の心情。蜘蛛の喜怒哀楽を私が同じように感じることはないが、それでも、蜘蛛は八本の脚をやみくもに動かし、苦しんでいるように見えた。

 虫に芳香剤を掛けると、芳香剤に含まれる界面活性剤が呼吸をする場所を詰まらせ、それで窒息死するらしい。つまり、あの蜘蛛は呼吸ができずに苦しんでいたのだ。その苦しみだったら、私にも分かる。呼吸を閉ざされれば、誰だって苦しい。自分自身のそんな死に方は、想像したくない。

 もし私が蜘蛛だったら、それはどんな気分なんだろう?

 ふと気づけば、私の指先はしっとりと濡れている。よく見れば指先から肘の先も、思えば背中全体も、腿の裏も、頭全体も濡れている。そして正体の分からないにおいを放っている。二度、三度と霧吹きが掛けられ、私の髪は湿り、濡れ、前髪から雫が垂れて落ちていく。それらが口に入り、私は呼吸をふさがれ、体をふたつに折り曲げて苦しみ出す。しかし霧吹きは勢いを増していく。首、腹、そして胸、顔。霧吹きを噴き掛け続ける者の正体はわからない。ただ、私よりもずっと巨大で、強大であることだけは間違いないだろう。

 視線だけは、必ずそこにあるのだ。

 私は振り返り、自分の頭上を見つめる。そこには、霧吹きの噴出口はない。蛍光灯で白く光る、丸い室内照明があるだけだ。人の目もなければ、侵略者の目もない。

 よく考えれば、私の体はどこも濡れていないし、呼吸も苦しくない。広げた指先は、ひとつの雫もついておらず、すっきりと乾いている。

 だれも私を殺そうとしていない。

 私はただ、部屋の隅にいた蜘蛛を退治しただけにすぎない。

 そしてそれは、私以外の誰もが取り得る行動だし、非難されるものでもないだろう。

 私は春用の薄い外套を着込み、室内の照明を消して玄関から外へ出る。蜘蛛の巣が作られるような湿っぽい室内とは裏腹に、屋外は暖かな陽気で満ちていて、晴れがましい青空が広がっていた。私は自分の考えごとに蓋をするように、できるだけ乱暴に、大きな音を立てて部屋の鍵を閉めた。


 私は、地方の大学に通う大学二年生であり、親元から離れて一人暮らしをしている。特定のサークルにも所属せず、学校と狭いアパートを往復するだけの、代わり映えのない生活を送っていた。

 その日、私は二限目の講義を終えるとB二〇六講義室へ足を運んだ。その講義室はとても広く、室内はゆるやかな半円を描き、座席は階段状に配置されている。学生たちはそこで思い思いに席を取り、昼食を摂っていた。私は後ろから四番目の席につき、生協で購入した惣菜弁当と飲み物を机に置いた。箸を割る前に入り口を振り返ると、小さな手提げを持ったユリが目にとまったので、私は彼女に自分の存在を示すように手を振った。ユリもすぐに私に気づき、席を縫って私のほうへやってくる。

 ユリは大学における、私の唯一の友達だった。第二外国語の講義で同じクラスになり、仲良くなったのだ。彼女は細身でスタイルがよく、飾りの少ない上質なファッションがとてもよく似合った。人目をひく、自慢できる友達だ。

 しかし、友達、といっても、ユリと私の会話はどこかぎこちなかった。知り合って間もないせいもあるだろうか、今ひとつ「気心が知れている」というところまでたどり着けないのだ。二人で向かい合って昼食を摂ると、だんだん会話の勢いが落ちていく。単位が取りやすい講義の話、同じ学部のカップルの噂、課題レポートの進捗などを話し終えると、会話が途切れる時間がだんだんと暈を増していく。ユリが一度箸を上下させる間隔で、私は箸を四回上下させた。

「そういえばさ」

 できてしまった空白を埋めるように、私はきのうツイッターで見かけた、隣県で起こった殺人事件について話した。

 その殺人事件は、二十三歳の看護師が何者かに強姦された後に殺害され、野山に遺棄されていたというものだ。また、その野山が私の住む県にあるということで、県内ニュースでも大きく取り上げられた。

 被害者は私たちと年齢が近いこと、凄惨な殺されかたをしたこと、犯人への手がかりは未だ掴めていないこと……。私の話を聞きながら、ユリが眉をひそめる。

「いやだな、そんな話。あんまり聞きたくない」

「ごめん」

 私は考えなしに、食事どきに相応しくない話題を持ち出したことをユリに詫びた。しかし、ユリはブラウンの眉をゆるめ、いいの、と私を許した。

「ううん、謝らないで。こういう話、他人事だと思ったらいけないんだろうね」

「そうだね、これからはもっと防犯に気をつけないといけないな。夜はひとりで出歩かないとかね」

 私は、当たり前のことを言って自分の昼食を進める。私の昼食は、大盛りの味噌野菜炒め弁当だ。調味料で濡れた割り箸の先で白米を寄せ、味噌に塗れた野菜を乗せ、口へ運ぶ。そして、急いで咀嚼をする合間に、再び昨日ツイッターで読んだ話をした。

「海外だとさ、性犯罪者には体のなかにGPSチップを埋め込むって法律で決まってるんだって」

 口からひとつ米粒が飛んだので、私はそれを拾い上げ、弁当の容器の端になすりつける。

「それでね、その性犯罪者が社会に戻った後、そのGPSチップで監視を続けるんだ。犯人が公園に入ればすぐに周辺の人のスマートフォンに連絡が入って、みんなが逃げられるようにするんだって。これ、すごく良い法律だよね。これなら絶対にさ、悪いヤツは犯罪できないよ。だって人間のほうが逃げていくんだから。周囲に人間がいないなら、害を与えられる人もいないよね」

 それにね、と私は語気を強めて話す。

「日本でもそういう法律を作る話が出てるんだって。成立するのは、いつになるかわからないけど。そしたらさ、すごく安心できると思わない?」

 そこまで話し終えて、私はようやく一息ついた。ユリが私の話に、力なく相づちを打ち、サンドイッチをひとくちだけ囓る。

「確かに安心できるけど、そんな法律、本当にできるかなあ」

「できるよ、できる」

 私は知らないうちに、自分が前へ乗り出して話していたことに気づき、姿勢を元に戻す。

「できるよ。絶対」

 私はそう熱っぽく繰り返しながら、自分に言い聞かせるように、米粒を咀嚼しながら何度もうなずいた。

 そのとき、ユリ、と男の声が場に響いた。

 私が振り向くと、そこに長身の男がいた。男は細身のジャケットを肩に羽織り、七分丈のパンツをはいている。

 男の名前は、ハルマといった。彼は私たちとは違う学部にいて、ユリと同じ企画系のサークルに所属しており、また、彼はユリの恋人だった。

 ハルマは私に軽い目礼を済ませると、ユリと週末の予定について話しだした。どうやら二人揃ってどこかへ出かける予定だったが、ハルマのほうにどうしても動かせない予定ができたらしく、取りやめにしようという話だった。私はハルマとユリが話している間、手持ち無沙汰になり、弁当の分厚い白米の層を崩すことに集中した。ユリとの会話がなくなった分、気持ちは楽になったが、ハルマとユリの会話の外にいることに寂寥感も覚える。私はすぐそばで交わされる恋人たちの会話について、できるだけ内容を頭に入れないようにした。

 出かけたかったイベントの話、法事の話、ずらした後の日程のすり合わせ、借りている本の話……。

 ふと二人の会話が途切れ、私は顔をあげる。そうすると、ハルマの涼やかな目と視線がかち合う。ハルマは左肩に脱いだジャケットをかけ直し、私に軽い調子の謝罪をした。

「割り込んで、ごめんね」

 ううん、別に。と私は彼に返事をする。彼は私の言葉を聞いているのかいないのか、じゃあね、とユリに声をかけてその場を去って行った。ハルマが行ってしまった後で、ユリも私に謝罪をする。

「ごめんね、話、中断して」

「べつに。仲いいんだね」

 私がそう言うと、ユリは軽く首を振り、笑って言った。

「そんなことないよ、ケンカばっかりだし。まだ付き合ったばっかりなのにな」

 ラブラブなんだね、と私が茶化して返すと、ちがうよ! とユリにしては珍しく、大きな声量で私に反論をした。それでも怒った様子はなかったので、私は安心し、再び弁当へ箸を向けた。

 講義室の学生たちはすでに昼食を終えた学生もいて、彼らはテキストを広げ自主学習を始めていた。七割ほど埋まっていた席も少しずつ空席になっていて、昼休みは徐々に終わりへと近づいていることが見て取れた。

 ユリは昼食を食べ終えると、次の空き時間で課題を済ませる、と言い残し、図書館へ向かった。私はそのまま、B二〇六講義室でテキストを広げ、三限目を受講する準備を始める。

 ノートを広げ、筆記用具を机に並べながら、私は体にGPSチップを埋め込む手術について考える。

 正直に言えば、私はその手術について強い興味を持っている。

 人の肉を裂いて異物を埋め込む行為が、この世界のどこかでは合法であること。

 その事実が、私に不思議な高揚感を覚えさせる。

 対象者が力の限り暴れても、その手足は無慈悲に押さえつけられ、手術室へ運ばれる。そして冷たく光るメスで体を開かれ、濡れた肉の中に無機質なGPSチップを置いたあと、皮膚を縫い合わされる。

 そんな手術から目を覚ました私は、一体何を思うんだろう?

 私が町へ出ると、周囲の人間が所持しているスマートフォンから一斉に警告音が鳴る。そのまま公園に向かうと、子どもたちが逃げ出し、保護者の元へ駆け寄る。大人たちは怯える子どもを宥めながら軽蔑の目で私を見つめ、子どもは私を視界に入れようとさえしない。

 そんな光景に出くわしたとき、私はいったい何を思うんだろう?

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