第25話 あなたの傍にいつまでも File 7

そのまま俺は何も言わず美愛のいる病室を出て行った。

病室の前の廊下で香がずっと待っていた。


香はリノリウムの床を見つめ「おかえり」と俺に一言呟く。


「……すまん香」

「ううん、いいの。これで……。さっ行きましょ。今日はめいいっぱい私に付き合ってもらうからね」

「ああ、分かったよ」


「うん、素直でよろしい。雄太」


にっこりとほほ笑んだ香の左手の薬指には、俺が彼女に送ったリングが輝いていた。




美愛の夏休みが終わる二日前。美愛は俺の家から自分の帰る場所。いや帰るべく本当の場所へ戻ることになった。


「今までお世話になりました……雄太さん、香さん」

「何言ってんだ、世話になったのはこっちの方だ。本当の意味で援助されていたのは俺たちの方だよな。香」

「そうだね。でもさ、美愛ちゃんの手料理食べられなくなるの物凄く悲しいんだけど!」


「そんなぁ、香さん頑張ってくださいよぉ! これから、雄太さんと結婚したら毎日ちゃんと朝ごはんとお夕食は必ず手料理を食べさせてやってくださいね。それが雄太さんの活力源なんですから」


その後ちょっと小声で

「雄太さん、どんなにまずくたって心がこもっていますからね、香さんの料理には、そこんとこ十分に自分のお腹に言い聞かせてくださいよ」


「うっ! 先が思いやられるんだけど……なぁ美愛、お前もう一度考え直さねぇか?」

「ええええっ、それ、まずいでしょ。ホントまずいでしょ。私、雄太さんからフラれちゃってるんだよ。それに二股かけられるのは嫌だなぁ」


「ちょっと、何二人でこそこそしてんのよ!」

二人声をそろえて

「いえ、なんでもないです!!」と答えた。


「まったくもう。でもね、美愛ちゃんがお休みの日にお料理教えに来てくれるのが楽しみになって来てるんだよ」

「本当ですか香さん?」


「うん本当だよ。だってさぁ、もう私たち美愛ちゃんのあの味に馴染んちゃってるんだもの。美愛ちゃんの料理を食べるとねぇ、とてもホッとするんだ。だからさ、たぶんこの味が私たちの家庭の味になるんだと思うんだ」

「なんだかそこまで言われるとなんか恐縮しちゃうなぁ」

「頼りにしているわよ美愛先生」


「うん、俺は大いにな」

「責任重大だね」

「うんそうだよ」

にっこりと笑う事が出来た。もっと寂しいかと思っていたけど、またここに来てくれるという。美愛とはまだまだずっと関わっていられるという安心感が、そうさせてくれたんだと思う。


美愛が病院に搬送されたあの日。俺たちは野木崎重工の社長。美愛の叔父さんからあることを言い渡されていた。

もし、迷惑でなければ、美愛の事をこのままお願いしていても構わないかと。


「久我さんには大変ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳なく思っています。それと同じに、あなたの様な方の所に美愛がいてくれた事に安心したことも事実です。本当に良かった。本当にいい人とあの子は巡り合えたと思います。今すぐに美愛を私達の所に引き戻すことは考えていません。本当に勝手なお願いですが、美愛をお二人の傍にこのままおいていただけないでしょうか。もちろんお二人の時間が許す限りで結構です。もう少し、あの子が、自分からもう一度歩き出すことが出来る様になるまで……」


「こちらこそ迷惑だなんて、少しも思っていませんよ。実際、俺たちは美愛さんから物凄く助けられていますから。そちらからこうしてお許しを頂けること自他とても光栄です。実際気になっていたことですからね」

と、大人の会話という物を交わしていたが、実際美愛との出会いの事を訊かれやしないかとひやひやしていたのは事実だった。


きっとそんな事実をこのおじさんたちが知ったら、卒倒してしまいそうだからな。


だが、美愛は退院してすぐに、自ら俺たちに叔父さんの所に戻ると言って来た。

あの事が……、原因なのかと思っていたが美愛曰く、そうではないようだ。


叔父さんたちの本当の気持ち、そして亡くなった美愛の両親の本当の想いを知った美愛は、もう一度、自分を見つめなおし、自分の為の一歩を踏み出したい。そのためには自分がいるべく場所に戻るのが、一番いいことだと彼女は言った。

それに関して俺たちは、引き留めることはしなかった。

美愛がようやく自分の足で、自分自身の為に歩もうとしているその姿が見えたからだ。


俺は良かったと思った。……だが、その話を美愛から切り出された時、俺の心に痛みを感じていなかったと言えばそれは嘘だった。

本当は……。


本当は無理なことだとは分かっていた。現実にはありえない事だという事も分かっていた。

―――――でも。


この生活がいつまでも続いてほしいと、願う想いがあったのは嘘ではない。

まるで夢を見ている様な毎日だった。

ほんの3ヶ月くらいの時間だったが、俺にとってはとても長い時間を共に過ごしていたように感じる。


不思議だ。とても不思議な子だ。……今思えばの事だが。


ふと何処からともなく『にゃぁ』と猫の鳴き声が聞こえて来たような気がした。

その時おぼろげに浮かぶ一つの想い出。


あれは俺が中学の時いや、高校に入ってすぐのあたりだった。

自分が思い描いていた、高校生活とはかけ離れた環境がこの俺を直撃した。そんな環境が俺を追い込み、俺はかなり荒れていた頃だ。

毎晩夜の街をふらつき、何となく集まる奴らと意味もなく会話したり、時には喧嘩したり。

何処からともなく湧き出るあの孤独感を、彼奴らで埋め合わせていた時代があった。


確かあの日は午後から降り出した雨が、ずっと公園の花壇に咲いていた紫陽花を濡らしていた。

傘を差し帰宅途中、後ろから来た車に道路にたまった雨水をかけられてずぶ濡れになり、ブチ切れそうになった時だ。

目で追って睨みつけていた車がいきなり急停車して、再びまた走り出した。


「なんだあの野郎」

立ち去った車の後。何かが路上に横たわっていた。

その何かが猫であることに気づくのに、そんなに時間はかからなった。

ぐったりと横たわる猫。

まだ息はあった。しかし、まともにあの車に当たり跳ねられたんだろう。もう体を動かす事すら出来なくなっていた。


「まったくひでぇことしやがる」


どうすることも出来ないという事は、すでにその時に分かっていた。


それでも俺はそっと、その猫を抱きかかえていた。

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