第26話 あなたの傍にいつまでも File 8
「可哀そうにな。痛かっただろ」
抱きかかえたその猫の瞳がずっと俺を見つめていた。
何とか助けてあげたかった。でも、もう……。
俺に出来ることはただ抱きしめてやることしか出来ない。
そんな俺に何かを言いたかったのかもしれない。
弱弱しく『にゃぁ』と声を出す。
それが最後だった。
そのまま俺はその猫を抱きかかえ、帰宅して自転車で雨の降りしきる中、少し離れた神社の裏山に行き、もう息絶えたあの猫を埋葬してやった。
そう言えばなんか似ている様な気がする。
美愛が俺を見つめるあの瞳の温かさと、ほんの少しの時しかなかったけど、あの猫から感じた瞳の温かさ。あの時の孤独な俺にはとても温かった。
まさかな……。
「先輩! ご婚約おめでとうございます」
「お、おう。ありがとう」
山岡と長野が二人声をそろえて、香との婚約を祝ってくれた。
「で、先輩。挙式は何時頃の予定なんですか?」
ニタニタしながら山岡が言い寄って来る。
「う――――ん。まだ本決まりじゃねぇんだけど、来春。桜の花が咲く頃がいいんじゃねぇのかって彼奴とも話しているところだ」
「彼奴……。ですか。もういいですねぇ、この前までは蓬田さんとしか言わなかったのにもう彼奴ですか。ほぅ、そうですかそうですか」
「な、なんだよ、山岡」
「いやぁ―、めでたいですねぇ。ふぅ―ん、そうなんですねぇ来春ですかぁ。いやぁ―、これはま、どうでもいいことなんですけど。俺たちももうじき先輩から巣立つわけじゃないですか。そうなればこうして愛佳と一緒に仕事も出来ないでしょうから、俺たち今度一緒に住む事にしたんですよぉ!」
「えっ、そうなのか長野?」
「まったくもうバカ昭、別に久我先輩に今、言う事じゃ無いんじゃないの」
顔を真っ赤にして長野がキッと山岡を睨みつける。
「別にいいじゃねぇかよ愛佳」
「て、事はお前らもそう言う展開がこの先待っているて言う事なのか?」
「いやいや、どうなんでしょうねぇ。でもですねぇ、愛佳がどうしてもていうもんですから。俺は仕方なくですよ。そ、仕方なく!」
「あ、そ。昭は仕方ないんだ! じゃ、やめる?」
「えっ、もう住むとこも契約したじゃねぇか。今さら解約なんて出来ねぇよ」
あ、この展開なんか俺の胸に物凄く刺さる様な気がするんだけど、気のせいなのか?
これはもしかしてやばいのか?
ここは先輩としてしっかりと……。
「馬鹿馬鹿。もう前金も払ってるんだから……。やめない。私これから一生あんたを苛め抜いて生きていくんだから」
「げげ! なんだその一生俺を苛め抜くって?」
「その通りよ」
「はぁ―、どうします? 先輩」
な、なんだよお前らのろけかよ漫才かよ。ああ、なんだ心配して損した気分だ。
「はっ、分かったから仕事始めねぇか」
朝からどっと疲れが出てきやがった。
ま、でも此奴らは俺たちの様にはならねぇな。
そんな気がしている。
その証拠に、二人は俺の前でもとても仲がいい。
たぶん、大丈夫だろう。と、俺は願いたいところだ。
山岡が言うように、この二人ももう時期俺の手から巣立つて行く。
ま、同じ食品部であることには変わりはないだろうが、これから、自分たちが先輩として、新人の尻を叩きながら、仕事をしていかなきゃならなくなる。
正直、人の前に出るというのは、大変なことだ。
その大変さをこれからお前たちが経験しながらまた育っていく。
あまり、人の事は言われねけどな。今度は俺自身も次のステージが待ち構えているからだ。うまく歯車が回ってくれることを俺は願いつつ、山岡と長野の姿を愛おしく見つめている。
頑張れよ。
これから俺も頑張るからよ。
夏休み最後の日になった。
最も夏休みの半分は補習で学校に行っていたから、長い夏休みという感じはあんまりしていない。
「先にお前、夏休み取っちまったんだから仕方がねぇだろ」
雄太さんが夏休みに入る前、ぐずるする私に言った言葉だ。
「ちゃんと行けよ!」と言われたのに「ふぁ―ぃ」と、気の抜けた返事を返したのを、今もちゃんと覚えている。
学校なんかもうどうでもよくなっていた私に、あそこに居てもいい条件の一つの中に「ちゃんと学校に行くこと」。雄太さんがそんな条件を付けちゃったんだよね。でもさ、今思えばあの時また学校に戻れたことは、私のこの想いの世界の中で変化をもたらしてくれた。
正直に言うと、あの時点では私の存在はあいまいな存在だった。
いるのにいない存在。
例えるなら空気の様な存在だったんだ。
それがどうしてか分からないけど、少しづつ、私の体に陽の光があたり、影が出来る存在になって来た。
今ではクラスの子たちとも、たわいもない会話を交わすようになった。
私という存在が現実のものに変わって来たんだと思う。
そして私は、叔父さんのうちに戻った……。
叔父さんたちは私に今までどんな生活をして、どうして雄太さんと知り合ったのか。……何も訊く事はなかった。
ただ普通に、何もなかったかのように、私はここにいる。
私に対して気を使ってくれているんだと思う。ただ一言叔父さんが私に言ったことがあった。
「ゆっくりでいい。自分の未来を見つめなさい」と。
その言葉が胸に刺さり、痛くて……そして嬉しかった。
「ありがとう……叔父さん」
「うん、頑張れ美愛」
そう言って私に返してくれた時の顔は、とても懐かしいお父さんの面影を思い起こさせた。
辛かったのは私だけじゃなかったんだね。
本当はお父さんもお母さんも辛かったんだね。
私はあんまりいい子じゃなかったのかもしれないね「ごめんね」
その時『にゃぁ』と鳴き声が聞こえて来た。
「リベ?」
「そんなことはないと思うよ。美愛ちゃん」
「リベなの?」
「うん」
声は聞えてくるけど、リベの姿は何処にもない。いつもなら、あの愛おしい目を私に向け、自分の躰をすりすりとこすりつけるように甘えてくるのに。
「何処にいるのリベ?」
「うん、何処だろうね。でもさ最後に美愛ちゃんにお別れを言いたくて、どうしても言いたくてさ。少しの時間だけ来ちゃった」
「えっ! 最後にって、お別れって」
「ありがとうね美和ちゃん。私の残した想いにつき合わせちゃって。私の想いも願いも叶ったよ。私は雄太さんにお礼がしたかった。あの時、もう時期死んでしまう見も知らない一匹の猫に彼は自分の優しさを与えてくれた。温かさを与えてくれた」
だから私はとても温かく。安らかに眠ることが出来たんだよ。
そして、その温かさに私は恋をしてしまったんだ。
久我雄太という人に……。
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