十二月 実は…ずっと

 年の瀬も迫った12月下旬、世間は何やら浮かれた雰囲気が漂っている。僕はといえば、例年この時季に行われる大規模なクラシックのコンサートに動員され、いつも通りアルバイトだ。


 同じく動員された佐々木は露骨にがっかりした顔で出勤し、物販カウンターでタッグを組む須崎から早々に喝を入れられていた。


 それでも、僕は寂しいとは思わない。隣に、いつものようにユウカさんがいるからだ。


                  ◇


 クラシックの公演は、普段は他のジャンルに比べて客層も大人しく、物販も粛々とこなせるが、この日は違う。着飾った大勢の人、人、人…。とにかく観客数が膨大だ。社員の上田さんは「今日は稼ぐよ、君たち」と大量のグッズやCDを仕入れてきたが、開演前に全て捌けそうな勢いだ。


 公演の雰囲気に合わせてか、ユウカさんは上品なレースワンピースにカーディガンを羽織っている。お嬢様度が上がった彼女を、僕は接客の合間にこっそり眺めていた。


 慌ただしい時間が過ぎ、開演5分前を知らせるベルが鳴ると、ホワイエに残っていた客は波が引くように会場に吸い込まれていった。ほっと息をつき、カウンターの椅子に座る。


「おつかれさまです。久々の大型公演ですね」


 隣に座るユウカさんに声をかける。疲れても表情に出にくい彼女は「うん…大変だった」と感想を述べた。


「ケイくんは…今夜は家族と過ごすの?」


「そうですね。毎年ケーキを買ってきて食べるのが我が家の習わしです。ユウカさんもご家族と一緒ですか?」


「そう…お兄ちゃんが、戻ってくるから」


 彼女の歳の離れた兄は、転勤で東京を離れており、年末に戻ってくるのだという。


「ユウカさんも、来年は大阪かもしれないですね」


 感慨に耽っていると、ユウカさんが「ケイくん、明日…」と言いかけた。その時、佐々木の明るい声が響いた。


「お二人さん。一緒に傷を舐め合うディナーはいかがですか?」


「お前と一緒にするな。あとユウカさんに失礼だろ」


 言いながら、隣をちらりと見る。言葉を遮られた彼女は、いつもの無表情で立ち上がった。


                  ◇


 ユウカさん、佐々木、須崎と僕の4人で近場のファミレスに向かう。佐々木と須崎が話している後ろを、無言のユウカさんと歩く。冬の風が、身を切るように冷たい。


 店に着くと、須崎は素早くメニューをめくり、皆の注文を確認して店員を呼んだ。テキパキしているのは年中無休らしい。


「内藤さん、いよいよ来年から社会人ですね。学生最後の年末、ゆっくりしちゃってください!」


 笑顔で話しかける須崎に、ユウカさんはおずおずと頷く。


「一木も、美人と一緒に働ける残り少ない時間を大切にしろよ」


 茶化されたので、手刀打ちの真似をする。佐々木は、大袈裟なリアクションで笑って避けた。


 とはいえ、佐々木にも一理ある。日常的にユウカさんと会える時間は、確実に、終わりに近づいている。


 ユウカさんはどういう気持ちなんだろう。はす向かいに座る彼女を見たが、淡々とスープを口に運んでいるだけだった。


                  ◇


 終演後、また怒涛の接客に追われ、くたくたに疲れ切ったところで最後の客が会場を後にした。集計と後片付けを終わらせ、事務所にいる上田さんに報告したら仕事終了だ。


 いつものようにユウカさんと会場を出て、駅まで公園沿いの道を歩く。澄み切った夜空にかかる月は、鉱物のような輝きを放っていた。


「ユウカさん、夕食に行く前、何か言いかけてませんでしたか?」


 それとなく、聞いてみる。


「何でも…ない」


 鼻にかかった声に驚いて顔を覗き込む。ユウカさんは、静かに涙を流していた。


「どうしたんです?具合が悪いなら…」


「だから、何でもない!」


 声を荒げる彼女を、見たことがなかった。言葉を無くし、立ち尽くす。


「ほんとは…ケイくんから、誘ってほしかった。でも、ケイくんは何も言わない」


「明日のことですか?僕は空いてるので全然大丈夫…」


「そういうことじゃない」


 涙が溢れ、ハンカチで頬を拭いながら、ユウカさんは続ける。


「学園祭に呼んでくれたとき、思ったの。ケイくんと…須崎さん、お似合いだなって。私なんか、いなくても…ケイくんは幸せになれる」


「何言ってるんですか、僕は…」


 言いかけて、はたと思う。ユウカさんに、ちゃんと気持ちを伝えたことが、一度でもあっただろうか。


「須崎さんが、その人じゃなくても、ケイくんにはこれから素敵な出会いがいっぱいある。私は、就職したら多分大阪に行くし、もう、これまでみたいには会えない」


「ユウカさん、僕は…」


「だから、終わりにしよう。ケイくんとは、アルバイトの同僚。それだけ…」


 月が、涙に濡れた顔を照らす。普段のユウカさんとは別人のような、切ない表情だった。


 ユウカさんに視線が釘付けになりながら、これまでの彼女との日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。無表情な彼女、恥ずかしそうな彼女、そして…僕が何よりも好きな、彼女の笑顔。当然のことと思っていた数々の思い出が、突然、繊細なガラス細工のように感じられた。


 無意識に彼女の手を取る。頬に、涙が伝うのを感じる。


「ユウカさん、僕はこれまで、一緒にいられるだけで楽しくて…本当に大事な、ユウカさんの気持ちを、置き去りにしていました。でも、これだけは言わせてください。僕は…ずっと」


 息を吸い込む。もう、言うしかない。


「ずっと、ユウカさんのことが…大好きでした。先のことは分からない。でも、この気持ちだけは、伝えさせてください」


 ユウカさんは、数秒、黙って僕を見つめていた。それから、ゆっくりと口を開く。


「…ほんとに?」


「ほんとの、ほんとです。初めて会ったときから、素敵な人だって思ってました。だから、これからもずっと…一緒にいたい」


 張りつめたユウカさんの表情が、少し緩んで、目尻が下がった。そして、柔らかく落ち着いた声で、彼女は言った。


「感情的になって、ごめん。でも、すごく嬉しい。私も、ケイくんのことが…大好きだから」


 僕の反応を確かめるまでもなく、ユウカさんは僕の手を握り返すと、足早に歩き出した。


 月明かりに照らされた顔は、見ることができない。それでも、その表情は、手に取るように分かった。

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