七月 実は…迷子
大学が夏休みに入って間もなく、僕は午後シフトの終わりにユウカさんを美術館に誘った。
「え…今から…」
突然の提案に戸惑っていたユウカさんも、重ねて頼み込むと「ケイくんが、観たい絵があるなら」と了承してくれた。
「あ…その前に上田さんに、来月のシフトのことで相談しなきゃ…ケイくん、先に行ってて。待ち合わせしよう」
そんなわけで、僕は多目的ホールから歩いて15分ほどのターミナル駅にある、有名な待ち合わせスポットでユウカさんを待つことにした。美術館には、歩いてほんの5分ほどの距離だ。
◇
「私…どこにいるの」
待つこと20分余、ユウカさんから着信があり、開口一番に彼女が発した言葉がそれだった。
「落ち着いてください。迷ったんですか?」
「うん…ごめんね、ケイくん」
「僕は大丈夫です。近くに駅はありますか?場所のヒントになるかもしれません」
「さっき、地下鉄の…笹宿駅の入り口が見えたよ」
「笹宿なら、大通り沿いに10分ぐらい歩けば着きます。僕も今からそっちに向かうので、落ち合いましょう」
通話を切り、早足で笹宿方面に歩き始める。屋内の仕事だったため気付かなかったが、ユウカさんに方向音痴という属性があることを今更ながら発見し、なぜか得をした気分になった。
◇
ユウカさんと合流する予定の交差点について10分ほど、やはり彼女の姿はない。心配していると、また電話がかかってきた。
「大通り沿いに歩いていったら、緑山駅に着いちゃった…」
どうやら、進む方向を90度間違えてしまったようだ。
「わかりました。今から緑山に行くので、その近くで待っていてください」
現在地から緑山へ行くには、地下鉄を使うのは迂遠だ。僕は駅に引き返すと、バスターミナルに向かった。ちょうど、緑山経由のバスが滑り込んできたので、乗客が下りるのを待って乗り込む。
◇
異変に気付いたのは、バスが発車して10分ほど経ってからだった。明らかに緑山とは異なる方角に、僕は運ばれていた。
「すみません、このバスって緑山は止まらないんですか?」
赤信号で停止した隙に、運転士に尋ねる。
「あぁ、これは紅葉町方面だからね。緑山には別系列が行くよ」
やられた。ターミナル駅で、ルートが切り替わったことを見落としたのだ。
次の停留所でバスを降り、ターミナル方面のバスをつかまえるべく交差点を渡る。なかなか来ないバスにやきもきしながら、ユウカさんに電話をかける。
「ユウカさん、本当にすみません。今度は僕が道を間違えてしまって…。今から全速で向かっても、緑山に着くのは20分後ぐらいになるかもです」
「大丈夫…焦らないで、ケイくん。私は近くのカフェでゆっくり待ってるから」
結局、緑山駅に到着したのは、それから30分以上経った後だった。
駅前のカフェに駆け込み、店内を見回す。ユウカさんは、夕日の差す窓辺の席で、静かに文庫本のページをめくっていた。僕に気が付くと、ほっとした顔で立ち上がる。
「ケイくん…わざわざ迎えに来てくれてありがとう。私が道に迷ったせいで、大変な思いをさせて、ごめんね」
「いえ、僕の方も待たせてしまったし。それに、この程度何でもありません」
本当に、ユウカさんのためなら何でもなかった。
◇
そこからターミナル行きのバスに乗り、僕たちは振出しの待ち合わせスポットにようやく辿り着いた。
「ここまで来ればもう安心ですよ。美術館はここからすぐです」
ユウカさんに、開催されている企画展の内容を宣伝しながら歩いていると、あっという間に美術館の前に到着した。
目玉展示となっている18世紀イギリスの風景画について饒舌に語っていると、隣でユウカさんが固まった。
「どうしたんですか、チケット売り場は中で…」
続いて僕も固まる。美術館の入り口に、「本日は閉館しました」と書かれた味気ない立て看板が置かれていた。
「私が方向音痴なせいで…せっかくケイくんが誘ってくれたのに、ごめんね…」
ユウカさんは見ている僕が申し訳なくなるほど落ち込んでしまっている。
しょんぼりしたユウカさんを前に、僕はいたたまれない気持ちになった。そもそも、今日彼女を美術館に誘ったのは僕だ。彼女を悲しい気持ちのまま返すわけにはいかない。
ユウカさんを励ます気持ちが先走り、つい口が滑った。
「ユウカさん。僕はユウカさんの方向音痴なところも、その…かわいいと思います。ユウカさんさえ良ければ、今週末、改めて一緒にここに来ませんか」
ユウカさんは、はっとして僕を見た。西日に照らされてきらめく潤んだ目が、いつもの無表情とのギャップを際立たせている。そのまま数秒間こちらを見ていた。
「いい…よ。今週末、楽しみにしてるね」
かくして、様々な災難に見舞われた結果、僕はユウカさんとの初休日デートを手に入れた。
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