六月 実は…初めて
梅雨入りが宣言されてから数日後、僕はユウカさんといつものように物販カウンターで長い休憩時間を過ごしていた。僕が最近始めたしたスマートフォンゲームで遊んでいる横で、ユウカさんは黙々と本を読んでいた。
「ケイくん…」
彼女の方から話しかけてきたのが意外で、僕はすぐに画面から目を上げる。
「なんですか?ユウカさん」
「私、就職…決まったよ」
はにかみながら報告する彼女に、僕はまず安堵した。4月以降、出版業界を目指すユウカさんが裏で苦労していたことは薄々察していた。僕は笑顔を浮かべ、ユウカさんを祝福する。
「おめでとうございます!良かったですね。出版社ですか?」
彼女は軽く頷く。
「絵本とか…出してる、中堅出版社」
絵本とユウカさん、どこかお似合いだな。そう考えているとユウカさんが続けて言った。
「本社が大阪だから、就職したら…そっち行くかも」
◇
弁当持参のユウカさんと別れ、行きつけのラーメン屋で豚骨を啜りながら、僕は複雑な心境だった。
日々一緒にシフトに入っているユウカさんは、年上ながら僕にとって親友と呼べる相手になっていた。ユウカさんが就職してアルバイトを卒業しても、今まで通り会うことができると勝手に思っていたが、職場が大阪ならば、そうもいかないだろう。
ただ、アルバイト初日、ユウカさんにぬいぐるみを贈って就職活動を応援した気持ちに偽りはない。ぬいぐるみを受け取って微笑んだ彼女の顔を思い浮かべ、僕は寂しい気持ちを封印して彼女の成功を祝うことにした。
ラーメン屋からの帰り道、僕はこれからの人生について色々と想像した。僕も3年後にはユウカさんのように進路を決め、4年後からは社会人として働き出すのだろう。その過程で、素敵な出会いもあるかも知れない。未来の可能性に思いを馳せながらも、なぜか、ユウカさんの面影が脳裏を離れることはなかった。
◇
終演後、カウンターの後片付けをしながら、僕は改めてユウカさんの門出を祝った。
「それにしても、本当にすごいですね。出版社なんて、希望しても入れない学生の方が圧倒的に多いはずなのに」
ユウカさんはゆっくりと顔をこちらに向け、目元に翳のある、不思議な笑みを浮かべた。基本的に無表情な彼女にしては珍しく、作り笑いをしたようにも見える。
「やっぱり、普段から本読んでたからですかね。好きな作家の担当になれたりしたら最高ですね。あぁ羨ましいな」
続けて褒めていると、ユウカさんは「ありがと…」と小声で寂しそうに礼を言った。
◇
仕事が終わり、ユウカさんと会場を出ようとすると、外は強い雨だった。
「あれ、いつの間にか降っちゃってますね」
そう言いながら折り畳み傘を取り出していると、ユウカさんが心なしかモジモジしている。
「ユウカさん、もしかして傘持ってません?よければ、僕のに入りますか」
誘ってみると、ユウカさんは予想外の早さで「ありがと…」と相合傘を承諾した。内心ガッツポーズをして、傘を開く。
駅へと向かう公園沿いの道を、寄り添って歩く。街頭に照らされたアスファルトに雨粒が跳ね返り、光の粒が躍っているようだ。
ふと見ると、ユウカさんの頬に、水が伝わっている。雨に濡れたのかと思い傘を持ち直そうとして、静かに泣いているのに気付いた。
「ユウカさん…大丈夫ですか?」
おずおずと声をかけると、ユウカさんは「ごめん…」と言いながらハンカチで頬を拭った。
「本当は…すごく行きたいところがあって…最終面接まで行ったけど、ダメで…」
涙声で言葉を継ぐ。
「大好きな…作家さんの本を出してる出版社で、一緒に仕事をするのが夢だったのに…」
彼女の隣で、僕は言葉が無かった。先ほど「好きな作家の担当になれたら最高」などと、軽率なお世辞を言った自分の愚かさが、耐え難かった。ユウカさんは一体どんな気持ちで、僕の言葉を聞いていたのだろう…。
恥ずかしさで顔が燃えるように熱かった。彼女の苦労など、結局のところ僕には何一つ理解できていなかったのだ。そんな僕に、どうして彼女を慰めることができるだろう。
自己嫌悪に陥っていると、ユウカさんが僕の手を急に握ったので、僕はびっくりして立ち止まった。涙の跡を残しながらも、精いっぱいの優しい笑顔を浮かべたユウカさんが、そこにいた。
「でも、ケイくんに応援プレゼントもらったの…とっても嬉しかった。ここまで頑張れたのは、ケイくんの…おかげ。ケイくん、ありがとう」
今度は僕の目頭が熱くなってしまい、とっさに目元を手で隠す。ユウカさんが「ふふ…」と柔らかく微笑んだのが分かった。
「ケイくん…私、相合傘してもらったの…初めて」
また顔が真っ赤になった僕の手を引くと、ユウカさんは駅に向かって足早に歩き出した。
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