五月 実は…頼れる先輩

 5月初め、ゴールデンウイークの公演ラッシュが続く中、僕は疲れ果てていた。


 連日朝から深夜にわたるシフトを深く考えずに入れた結果、連休後半にはへろへろになってしまい、開演前に物販カウンターの様子を見に来た社員の上田トモエさんに心配された。


「一木くん、顔色悪いね。今日は無理しないで早めに上がった方がよくない?今日は内藤さんもいるし、こっちは大丈夫だから」


 隣ではユウカさんが、黙々とグッズを机に並べている。


 僕は一瞬迷ったが、ユウカさんに仕事を押し付けるようで気が引け、無理に笑顔を作って「ありがとうございます。でも大丈夫です」と言った。


「無理はしないでよね。何かあって困るのは一木くんだけじゃないんだから」


 上田さんは半信半疑という顔で、従業員用通路に消えていった。


                  ◇


 その日は古参のビジュアル系ロックバンドのコンサートで、客層も百戦錬磨の猛者たちだった。普段は職場や家庭で良識ある大人を演じているだろう中年の男女が、一夜限定で帰ってきた青春を謳歌するべく、気迫のこもった眼差しでカウンターに殺到する。


「このCDは初回限定盤なの?もうここでしか買えないんでしょ、3枚頂戴!」


「このタオルは何と何を買えば付いてくるんだ」


「あの光る棒売ってないの?ほら、ライブでみんな振ってるピカピカするやつ」


 ユウカさんが普段と変わらぬ無表情で客を淡々と捌ている横で、僕は頭がショートしそうになっていた。冷や汗が額を流れ落ちる。


「しょ、少々お待ちください。一人ずつご対応しますので…」


 初回限定CDを袋に入れようとして、汗で手が滑って取り落としてしまう。


「すみません…」と言いながら床に落ちたCDを拾う間にも、長蛇の列からは無言の圧力がかかる。


 限界だと思ったその時、横からふっと白いハンカチが差し出された。ユウカさんが、前かがみに僕を覗き込んでいる。長い黒髪が、床につきそうだった。


「汗…拭いて。落ち着いてやれば、大丈夫」


「ありがとうございます、ユウカさん」


 僕は礼を言ってハンカチを額に当て、深呼吸をする。少しずつ、動悸が収まっていった。


                  ◇


「合わない!」


 一難去ってまた一難とはまさに今の状況だ。終演後に売上を集計したところ、お金と商品が3000円ほどズレていた。僕が焦って接客した際に、取り違えてしまったのだろう。


「どうしよう、これじゃ上田さんになんて言われるか…」


 意気消沈していると、ユウカさんが軽く僕の肩に触れた。


「大丈夫…よくあることだから。一緒に、報告しに行こう」


 二人で従業員用通路を抜け、奥の倉庫脇にある事務所に入る。上田さんは、難しい顔をしてパソコンと睨めっこしていた。


「上田さん、すみません。今日の集計、僕のミスのせいで合わなくて、その…」


 僕がおずおずと白状すると、虫の居所が悪い上田さんは呆れ顔で向き直った。


「ほら言わんこっちゃない!無理するなって言ったのに、ほんと何でだか…」


「待って…ください。ケイくんだけじゃなくて、私も悪いんです」


 大人しいユウカさんが割って入ったので、僕も上田さんも思わず彼女を凝視する。


「ケイくんは…たしかに疲れていて、それに私も気付いてたのに、ちゃんとフォローできなくて…」


 ユウカさんはたどたどしく、けれど目に毅然とした光を浮かべて、必死に僕を庇う。


「足りない分のお金は、私が払います。だから、ケイくんだけを…責めないで」


 頭が冷えたらしい上田さんは、手を振ってユウカさんを遮った。


「内藤さんの言う通り。思わずカッとなってごめんよ。お金のことはこっちで何とかするから、今日はもう帰ってよし」


 僕とユウカさんは上田さんにもう一度頭を下げ、事務所を後にした。


                  ◇


 会場から最寄り駅までの道をユウカさんと歩きながら、僕は改めてユウカさんに礼を言った。夜でも残る、初夏の陽気が心地良い。


「ユウカさん、今日は色々助けてくれてありがとうございます。上田さんにも一緒に謝ってもらって、本当にすみません」


「気にしなくて…いい。ケイくんは、いつも頑張ってるから」


 街頭の光に映し出されたユウカさんの顔は、いつもより少し大人びて見えた。


「あ、これ返すの忘れてました」


 ポケットからユウカさんのハンカチを取り出し、手渡そうとすると、ユウカさんがぼそりと言った。


「それ、あげる」


「え、あげるって。貰っていいんですか?!」


 目を白黒させていると、ユウカさんはニヤリ、と悪戯っぽく微笑んだ。


「…うそ」

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