36話 絶望の果てに、彼女は抱く
ショッピングモールでの胸を触って良いか良くないか、許可はそこにあったのかなかったのか──そんな事件から一日経った次の日。5月13日木曜日、放課後第二図書室にて。
今日もやっぱり、俺達はここに居た。
「オルテガの語る大衆について、先輩はどう考えますか? 自分には権利だけがあると思っていて、義務は果たすことも知ることもない。また自らの発言にも何ら責任を負うこともしない。そのくせ排他的で許容がなく、少数派を好しとしない彼らを」
「賛成賛成、大賛成。寧ろそんな世界が一番平和だと思うよ」
「その心は?」
「オルテガさんが誰かは知らないけれど、俺には肯定的な言葉に聞こえたから」
倉主は今日という放課後が始まってから、こうして質問を繰り返している。しかも今日は対面ではなく、彼女は俺の隣に座っていた。時折肩を触れさせながら、シャンプーだが何だかの香りを漂わせながら、ソーシャルディスタンスもクソもなく、密接して座していた。
昨日の今日で随分懐かれたものだと思うと同時に、まるで全然懐かなかった実家の犬が餌をくれてやった途端に猛烈に顔をぺろぺろするみたいに、何故?どうして? と言う倉主に多少の鬱陶しさと『俺はお前の母ちゃんじゃないっつーの!』というジャイアン風な愚痴を溢しつつ、それでも出来るだけ真剣に返すのだ。
下らない議論を交わしながら、残りの時間を消費して、彼女が本を片手に語る小難しい議論に、掌に残った感触を思い返しながら、上の空だったと思う。横に備わるたゆんたゆん双丘を眺めて、思い出と比べて。
「サイレントマジョリティー、物言わぬ多数派、大衆。実際に社会を動かしているのは彼らだろう。集団を作って、危ないやつは徹底的に排除する。自分が正義と疑わないし、知性があると自惚れた連中。民主主義から生まれた化け物。いじめの原因」
「あれれ、賛成ではなかったのですか?」
「ところがどっこい、民主主義には大衆が必要だ。倉主ちゃんはSNSと利用しているかな?」
「いえ、誘拐の恐れがあると父に禁止されていますからー」
ああ、うん、そう。
「……まあいいや。現代、SNSの普及した社会では多数派の声もさることながら、少数派の声も同じように大きくなる。きっかけさえあれば、いくらでも多数派が少数派に変わり、少数派が多数派に成り代わる。炎上とかバズるとかさ。しかし、これを極端な話で突き詰めるとどうなると思う?」
「さあ?」
「個人の発言が力を持ち過ぎると、意見や思想の収拾が付かなくなる。誰も彼もが『これが俺の意見だ』と言って、それに賛同する者が現れて、他の場所ではまた別の集団が生まれ、それがあっちでもこっちでも。責任を負う者がいないのではなく、責任の所在を明らかに出来ないという最悪が発生し、その結果──起こるのは民主主義の崩壊。過去にもそうやって国は滅んで来たし、だから政治は議席を制限している。オルテガさんの言いたいことは何か知らないけど、大衆が無知である方がこの世界は健全だと思うよ。いや知らんけど。つーかどっちでも良いけど」
「なるほどなるほど……」
遅くとも明日には説得を完了させなければいけないのだが、分かっていて焦ってもいるけど、どうにもこうにも、そもそも図書室を手放したくないのは彼女のわがままであり、ただの願望。加えて俺は、追い出す為の材料を何一つ所持していない。それどころか追い出す算段も立てていないし、追い出す気が自分にあるかも微妙なところだった。
だってもうおっぱい触ったし。
「倉主ちゃーん、俺はもう駄目だー」
「先輩、どうしたんですかー? 頑張ってください。私はまだ聞きたいことが一杯あるんですよー」
「え、おっぱい?」
「言ってませーん」
何というかやる気が出なかったのである。仮にそれすらも倉主の策略だとすればもう天晴れとしか言えず、例え家族共々路頭を彷徨う事になろうと、結局、権力や財力に一般人が勝てなかったとそれだけで、諦める他無い。
自分の人生は誰かの模倣とは、彼女が抱えていた問題ではあるが、恐らくはそれすらも模倣であり引用だと思う。つまりは彼女を形成する核ではなく、他にもまだ、この図書室を手放したくない理由、俺に拘る理由、厨二病に罹ってしまった理由、本が好きな理由、世間に対して冷めていた理由、それらを形作った“何か“がまだ彼女の中で燻っている筈だ。そしてそれらを解決するにはあまりにも時間が足りず、
という訳で俺はもう体にさえ力が入らず、こうして机にだらんと、もたれているのであった。
「せんぱーい。先輩ってばー、しっかりして下さいよー」
左隣から柔らかな掌で何度も揺さぶられても、出ないやる気は出ない。まさか自分に、こんな美少女と、こんなシチュエーションを繰り出す事があろうとは予想だにせず、しかもこんなに無気力になるとは夢にも思わなかったよ。
「あ、そうだ」
と、振り子のようにゆらゆら揺れていたところを突然離されて、特に何の抵抗もしていなかったからか気が付くと、そのまま俺は倒れ込んでしまっていた。ぽとん、と頭が落ちて、視界には長机の下の世界が広がっていた。等間隔に並んだ椅子の足、遮られた、僅かに差し込む夕陽、反射する埃。
そういえば小学生の頃、よく潜り込んでいたっけと。
「……あり?」
しかし、横になった箇所には途轍もなく柔らかい感触、椅子に設置されたクッションとは確実に違った感覚を、頬で察知して穏やかな心境は一変──そう、俺が幸運にも倒れ込んだ箇所は、
何を隠そう彼女の膝の上、膝の上の枕。膝の上の俺。
「お前、これは」
正直、体は強張っていた。だってこれは、だってエロいことじゃんかと。
「あ、すみませーん。大丈夫ですか?」
だけども倉主は相変わらず間延びした、ゆったりした口調で言うもんだから。
「うん、もう、なんか大丈夫」
と、何か言うのも面倒になって、次第に体が自然に預けられていた。
スカートの上からでも充分感じられる肌の温度、沈み込む頭がそのままどこまでも、深く連れて行かれそうだった。これはまずい、何かこう、いけない扉が開いちゃうと、上体を起こさなければと思いつつ、それでも俺は、体を全く動かす事が出来なかった。
「良いですよ、そのままで」
何故なら起こそうとしたその瞬間には、俺の頭皮が心地良い感触を感じていたから。
「……いつ以来だろう、こんなことされたのは」
頭を、撫でられているのか、俺は。
倉主は何も言わず、だからこちらも何も言えずに。撫でる、というよりはそっと手を置いただけで、動いていたのは最初の2、3回だったと思う。形を確かめるように上下に動かされた後、彼女の掌は動かなかったけれど、ただそこにあるというだけで何故だか、無性にくすぐったかった。
そうして一体、どれほどの時間が経った頃だろう。倉主が徐に口を開く。
「私、先輩から沢山の影響を貰いました。言葉を貰いました」
卒業生を送り出すように、新入生代表の挨拶みたいに、彼女は優しく穏やかに。
「考えを貰いました。普段私が思っていたこと、昔から私が思っていた事を聞いてくれた。会話してくれた。議論してくれた。でもそれは、誰でも良かったわけじゃあ、ないんですよ?」
そうして倉主の掌が、頭から徐々にズレて、頬へと移る。
「先輩は私が許容出来ぬ人。私の今までを全て否定出来る人」
彼女の手が動く度、髪が掻かれる度に、
「なので私からも、先輩に贈り物をしようと思います」
肌と肌が直接触れる感触を覚えていた。だけど、彼女の掌は想像よりも、異常な程に──冷たい。背筋が凍るほど。あまりの温度差に火傷しないだろうかと、心配になるくらい。
「もしかしてチューでもしてくれんのか?」
倉主は微かに笑い、『もっと良いものですよ』と、頬から手をまた移動させて、今度は俺の視界を覆っていた。ひんやりと覆われて、しかし瞼は決して閉じていない。寧ろ光を求めるように、指の隙間から覗く景色を探していた。
「図書室の件、私はここを、諦める事にしました。なので土曜日から始まって、日曜日には何もかもが撤去されていて、月曜日にはもう跡形も無くなっているでしょう。なので、明日が最後なわけです」
「……そりゃ良かった」
「元気が出ましたか?」
「まあな」
元気とは違うけど、やる気は出たよ。
「じゃあ、俺の人生は破滅を免れたってわけだ」
「いいえ。それはまだこれからです。私はまだ先輩に納得していません。影響は受けたけれど、それを自分のものに出来ていない。越えられていない。超えたい。乗り越えたいのです」
「……そんなことだろうと思ったよ」
「あは、やっぱり先輩は、ちゃんと理解していましたよね。理解していてくれていましたよね」
「……明日が最後、ね」
「あは、明日が最後、です」
俺が忘れかけていた倉主を恋人にするという目的、そして第二図書室の存続。片方は呆気なく解決した。しかし残るもう一つはいまだに闇の底。彼女が抱える幾つかの問題に答えを出したが、倉主琳という人間が生まれながらに有する性質、その源に関して、俺はその端に触れただけ。この冷え切った掌の理由を、俺はまだ知らないのだ。
だとすれば当然、彼女は納得などしていないし、俺に拘り続ける。
彼女の持つ他者への幻想、その眼差しは、その炎は、未だに燃え続けているのだから。
「とりあえず今日はおやすみなさい。そして願わくば──先輩が持つ正しい倫理観が、そのままでありますように。私のものになりますように、私にとって、たった一つでありますように」
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