35話 模倣は誰が為に

 乳房。哺乳類の雌が備えていて、人体における役割としては文字通り、乳児を育てる為の重要な器官。皮膚に覆われ、成長と共に膨れる柔らかい器官。そこには別にやましさとかエロさとかは全然無い。授乳という行為はこの世で最も美しいもので、乳児の食事風景は絵画にすら引けを取らない。俺はただその神秘に、あくまで確認として触れてみたかっただけなのである。その神聖さを侵そうなどとは全く考慮しておらず、加えて、『胸に手を当てる』という言葉もあるように、胸とは心や魂の箇所としても知られているだろう。ならばまさしく──俺は彼女の『胸』に触れた、心に触れた、魂に触れたと言える。つまり全然そういう変な事を考えて触ったわけじゃない。


 宣戦布告。俺はお前に踏み込むぞと、そういう意味を込めて俺は触ったんだ、


「いーえ、先輩はただ触りたかっただけでしょうこの変態」


 と色々言い訳をしてみたけれど、倉主の機嫌はまだちょっと斜めらしい。炭酸飲料の入ったドリンク、そのストローを加えながら、そのまま口先を尖らせて、彼女は言った。


「すみませんでした」


 本屋と逃げるように飛び出した後、人混みをすたすた、無言のままで掻き分けて行く倉主が向かったのは、3階のフードコート。


 それから彼女は一軒のテナント前に立ち止まり、見るとそれはファーストフード店。倉主は看板の下に掛かっているメニュー、その一番真ん中を指差し、それからやはり何も言わないままで歩き出すと、レジに並び始める。唐突な行動に『倉主ちゃんもこういうの食べるんだなあ』と考えながら、隣に並ぶ。そうして、しかし自分達の出番が回って来たというのに、倉主は店員の『いらっしゃいませ』にも無反応で、じっとこちらを見つめては何かを目で訴えていて、俺に『奢れ』と、そう瞳が告げていたのだ。超金持ちのお嬢様が、一般市民である俺にハンバーガーを奢れとそういう事を、彼女は怒りに任せて。


 そして現在、倉主は俺の金で購入したまあまあ大きいハンバーガーを頬張りながら、そのおかげというか、トップギアだった怒りが徐々に下がっているのか知らないが、ようやく口を開くまでには落ち着いたらしい──いや落ち着いているというよりは、何かこう、当たり散らすみたいにむしゃむしゃ食べているんだけども。


「バイトもしていない貧乏学生の金で食うハンバーガーは美味いか?」


「……体に悪いものを食べているという実感はあります」


「俺は美味いかって聞いてるんだぜ?」


「不健康を暴飲暴食する。これほどのストレス解消はありません。自分に何か悪いことをしている背徳感に包まれる幸福。きっと大人はこんな気持ちでお酒を飲んだり、タバコを吸ったりするのでしょうね」


「違うと思うけどね」


「いえいえこれはもう中毒ですよ。見てくださいこのレタス。葉の部分など全く無い茎だけ。お肉にはこんなにもべっとりソースが付いていて、ポテトに触れれば指先には塩の結晶。更にはあれだけの提供スピードですから、それはもう厨房は大変なことになってるでしょうね」


「褒めてるのか貶してるのか、食うのか喋るのかどれかにしろ」


「では食べます」


 授業終わりの学生や、子供達。大学生、夜が近付いたせいか仕事帰りのサラリーマンもちらほら。うんざりするほど騒がしい空間の中、しかし彼女と俺には関係が無い事。俺はむしゃむしゃする倉主を、ただ黙って眺めているだけ、彼女はただ、こちらに視線を向けることもなく、手元の包みに顔を突っ込んでいるだけ。


 しかしこうして見ていると、倉主を愛らしく思い始めている自分に気が付く。美少女とも違う、文学少女とも違う──もっと子供のような、そんな愛らしさを。


「それで、どうだったんですか?」


 と、ぼーっと脳内で暇潰しをしていたら、突然倉主が顔を上げて言う。ハンバーガーを完食し、包みを丁寧に折り畳んで、トレーにそっと、いや叩き付けた。それから倉主は残りもの、セットメニューで付属していたポテトを、真っ直ぐ俺に突き付けてくる。香りこそしてこないものの、先端の黄色が店内の照明で、宝石のように輝いていて、流石に俺も腹が減ってきて、


「あーん」


 気付いた時には、俺は口を開いてポテトを迎え入れようとしていた。


「何してるんですか」


 しかし倉主は、一本たりとて俺にはくれるつもりが無い。さっと突き付けた金の棒を引くと自らの口に放り込んでいく。


「……何が?」


「私の胸を、非常識にも無遠慮に触っておいて、感想の一つも貰えないのは少々不満です──初めてだったんですよー?」


 そういえば俺も初めて触った。というよりファーストキスよりも先におっぱいに触る機会があるとは夢にも思わず。いやでも俺だった赤ん坊の時期はあったんだから、厳密に言うと母親以外の胸に触れたのは初めて、という事になるか。


 実を言うと服の上からだったので、柔らかさを感じていた、というよりは制服の生地の感触が殆どだったと思う。そこから少し跳ね返りがあっただけで、アレを触れたと言って良いのか、それとも当たっただけというべきか、


 様々考え、俺は結論として率直に答えを出す。


「とても良かった」


 しかし聞いた倉主は『むっ』と。どうやらお気に召さなかったらしい。というかベースがそもそもキレているから何を言っても変わらなかっただろう。


「『とても良かった』? それだけ? 女性の財産に触れておいて出てくる感想はそれだけですか?」


「えー、じゃあもっと具体的に論述すると──」


「いえいえやっぱり良いです。聞きたくない、論じないで述べないで」


「ははは、冗談だ」


「冗談で済みませんよ全く──しかし、とはいえ、先輩という人間を見誤った私にも非があります、かねー。理解はしていたつもりだったのですが、正直甘く見ていました」


 暴飲暴食の限りを尽くして少しは気が晴れたのだろう、倉主は徐々に元の、間延びした口調に戻っていた。


「先輩はやはり、常人ではありませんね」


「何度も言うけどお前が触って良いって言ったんじゃろうがっ」


「触って良いと言われて本当に触る人間はいませんよ」


「痴漢という犯罪が無くならないのは何故だと思う? たった一度の感触の為だけに、人生を棒に振る人間が数え切れない程存在しているこの世界。お前は図書室に籠りすぎて、この世界の広大さを分かっていない。実際に触る人間、お前の理解を超える人間が、お前の身近には沢山居るんだぜ? 知れて良かったな」


「話を広げないで下さいよ。今、問題視すべきことは『先輩が後輩の胸に触れた件』です」


 倉主は、いつの日か俺が言った言葉を模倣していた。


「俺はお前の許可を元に触れた。お前は許可があっても触れるべきでないと主張している。これは結局イタチごっこ、不毛な議論だ。答えなんて出る筈もない、時間の無駄。弁護士でも呼んでこい」


 なので、俺はいつの日かの、彼女の言葉を模倣し返す。


「意見の相違について議論を交わす事は出来たのですから、決して無駄とは言えませんよー。お互いの考えを知ることは重要です。心の見えぬ人類は、そうして言葉を使うしかない。代理として会話して、意思疎通を図って、進化して──」


 そこまで言って倉主は『なるほど、そういうこと』と、自分達が口にしていた事の正体に気が付いて、手にしていたカップをそっとテーブルに置いた。互いに視線を交わし、お互いの思考が一致していると確証が持てた瞬間、彼女は深く息を吐いていた。


「そうそう、そういうもんだよ」


 俺は笑っていて、彼女も笑って頷いていた。


「ええ……ですかね」


 最初の会話である『管理人を誰が管理するか』という不毛な議論を、俺達は互いに思い出していたのだ。しかし今回は立場が違っていて、反転している。そしてそれは彼女が影響を受け始めている証拠だと、賢い倉主が自ら気がつくのに時間は掛からなかったのだろう。


「言葉は心の代理、か。倉主ちゃんらしい良い言葉だ。もし君が、本当にそう捉えているのなら、自分が誰かの模倣だなんて悩む必要は無いし、君の言う、本当の自分というヤツの正体も、凡そ検討が付いたんじゃないかな」


「確かに、そうかもしれません。まだ何とも言えませんけど」


「人は誰かの言葉を使う、誰かの表情を使う、誰かの考えを使う。模倣や引用とも言えるが、結局選んで使用しているのは自分自身だ。代理したのも行使したのも、選んだのも君自身の心。そしてそれは、その時点でもう君自身のものと何も変わりない。まあ、真似するのも程々にしないと、人は自分の間違いにすら気が付かなくなってしまうから、そこは気を付けないといけないよー倉主ちゃんや」


 そう、彼女は少し他人を自らに取り込み過ぎていた、ただそれだけなのだ。


「ええ、その通り……ですね」


 倉主は心底納得している、ということでもないようだけど、この様子ならば後は自分で考えて答えを出せるだろう。


「さて、じゃあ図書室を手放す気になったかな?」


 良い感じに纏まったところで、隙を見て差し込んでみた。


「いいえ。それとこれとは話が別です」


「ですよねー」


「というか、先輩が私の胸に触った件についても未だ解決していませんからー」


「……ですよね、すいません」


 5月12日水曜日。期限残り2日。説得についてはまだまだ時間が掛かるようであった。

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