21話 死にたいほどに

『あの子さえいなければ、ワタシは幸せだった。本当に殺したかったのは自分じゃない。丁を殺して、ワタシは死にたくなんてなかった。あの子が羨ましい。笑顔も泣き顔も全部鬱陶しい。死んで欲しいと思うくらい』


 この言葉は、夏取が母親のフリをしているだけで、結局は彼女自身の言葉。


 夏取は多分、母親の自殺を自分のせいだと思っている。


 自分が居たから、母親は自殺以外の選択肢が無かったのだと。自分は全く愛されていなかったのだと。


 そしてそれに気が付いた時──夏取は自分の中に理想の母親を作り出した。あまりにも夢と希望にマッチングしていたから、自分で制御する事も出来なくて、狂ってしまったんだと思う。


 狂って、変にならないと、母親を自分の中に飼う事が出来なかったのだ。


 人は仮面を幾つも持って生きているけど、一つの体に二つの心を入れるには、彼女はまだ幼すぎる。


 死んでいる事も、自分が変だという事も全部分かっていて、しかしそれでも受け入れてしまった。気が触れても尚、それよりもずっと『お母さん』と一緒に居たかったから。『お母さん』が自分を拒んだと思いたくなかったから。


 だから今、彼女は目の前で自殺しようとしている、と思う。


 勿論全部想像だけど、それは彼女だって同じ筈。だって俺と『同じ』らしいし。


「……夏取ちゃん」


 一歩でも踏み外せば首が絞まるというのに、夏取は平気な顔してぶらぶらと片足を揺らしていた。ローラー付きの、不安定な足場の上で、彼女は歌っていた、縄、と言うにはあまりに細く、良く見ればそれはビニール紐で、もう既に首に食い込んでいるようにも思える。


 正直、背筋が凍っている。


 今この瞬間にも、いつ椅子を外してもおかしくない状態に見えたからだ。落ちたら体でも抱えるか? いやこの腕じゃあ無理。それに多分滅茶苦茶暴れると思うし。


「頭がおかしいのは知ってたが、それ以上やると本当にイっちまうぞお前」


 言うと、夏取は地面を見つめたままで、歌を止める。


 こんな精神で良くもまあ今日まで生きていたものだ。いつだって機会はあったろうに、わざわざ今日を選ぶんだから──俺を家に呼んだ今日を、彼女は選んで自殺しようとしているんだから、これはもう。


「どうして丁だけが生きているの」


「自殺したからだろが」


「そうして丁だけが笑っていられる? どうして丁だけが泣いていられる? どうして、憎い羨ましい、痛い」


「痛いのは俺だよバカたれ」


 視線を切らさないようビニール紐の先を目で追っていくと、それはどうやら天井ではなく、ロフトに付けられた柵から伸びているようだった。強度のほどは知らないが、多分人一人の重量なら簡単に耐えるだろうと思うと、反吐が出る。


「折上君も、丁と一緒だね」


「前にも言ったが、人は人を本当に理解することはない。お前は俺の何も理解していないし、お前と俺は違う」


「そう」


 夏取の、揺れていた片足が止まる。揃えた両足を見て、彼女はもう行く気だと悟った。


「お前も、お前の母親を何も理解出来ていない」


 そう俺が告げた時、彼女は初めてこちらを向いた。


「……なにが?」


「お前の母親が、本当は何を考えて死んだか、お前は知らないだろ」


 夏取は答えない。ならば続ける。


「お前の母親が、本当は何を思っていたなんて、お前は知らないだろ」


「あなたにはなにがわかる?」


「分かんねえって、これも前に言っただろうが。だってお前の母親死んでるし、お前はお前で、母親は母親。例え家族であろうと別々の人間、互いに理解出来ているつもりでも、心の声でも聞こえねえならそりゃ分かった気になってるだけだ」


「……」


「お前を愛していたかもしれねえし、憎んでたかもしれない。でもそりゃあ、今となってはもう分かんねえんだよ」


「ヤメテ」


「だってさ」


「ヤメテって!」


「お前の母親は、この世にいないんだから」


「もう、やめてよっ……」


 一瞬だけの雷光に、夏取の横顔が鮮明になっていた。表情の無かった表情に、彼女らしい色が灯っていて、見知った彼女の──初めて見た泣き顔が見えた気がする。


 そーっと近付いて、刺激しないように。


「死にたいくらい辛いなら、死んでもいい」


 慎重に慎重に、


「生きたいならそれで良い」


 肩に触れて、頬に触れて、首に掛かった紐を外した。


「どっちでも良いけど、俺の目の前で死ぬな」


 少し強張っていたけど、抵抗は無かったと思う。


「友達だから、止めちゃうじゃんか」


 さて、こんな時で申し訳ないけど、自分にカノジョが出来ない理由はこういう部分なんだと、納得してしまった。


 こういう時、震える体を自然に抱き締められるくせに、どうして『友達』なんて言っちゃうんだろうと、『お前が好きだから』ってなんで言えないんだろうと。


 あーあ、死にたい。


 と、夏取を抱きながらそんな事を思っていた。


 明かりの落ちた部屋は静寂で、咽び泣く声と窓を叩く雨音だけが響いていて、女子特有のふんわりとした良い香りをこうしていつまでも包み込んでいたいが、しかし、一体いつまでこうしていれば良い。というか腕と頭が痛すぎて今にも意識がぶっ飛びそうなので、出来れば少し離れたい。


「……あ、あの……夏取ちゃん?」


 結局耐えかねて声を掛けるが、返答は無かった。それどころかこちらに掛かっている体重が、みるみる重くなっていくのを感じていて、流石に焦りを覚えた。預けている、というより、のしかかっている。そう表すことが正しいとさえ思えるくらいには、重い。


「ちょ、ちょいっ」


 動かない右手では上手くバランスが取れず、終いには倒れ込んでしまう。


「……まじか」


 全身を柔らかい感触に押し潰されながら、聞こえて来たのはすやすやと、安らかで大きな呼吸──寝息が、耳元で上下していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る