20話 希望の歌
いつもいつも、何かに負けてきた。欲しいものを誰かに奪われ続けて来た。
だから俺は負ける事が嫌いだ。しかし、この、敢えて症状に素人目線で名前を付けるなら多重人格の少女は、怖がっている俺を逃がそうとした──気に食わない。下に見られた。コイツなんかには自分は救えないと思われて、手放されそうになったのだ。俺はそれが許せない。
誰かが自分より幸運になる事は許せないけど、誰かが自分より不幸になる事も我慢出来ないくらい、許せない。
「今からお前の母ちゃん、殺してもいい?」
玄関から溢れる光で、今は随分良く夏取の顔が見えている。ニコニコと薄ら笑いを浮かべて、目線だけはしっかりこっちに向いているくせに、その瞳には俺が映っていないのが分かる。
「ワタシを殺す?」
「そうそう」
「良いよ」
「良いんだ?」
「だって殺すってことは、生きてるってことでしょう?」
どう足掻いても夏取は自分の母親が生きている設定に縋りたいらしいけれど──これ、これだ。欲しかったのはその言葉。
既に返す言葉も決めている。トリガーとなる、発端となる一言を。目を逸らされないように、怖がって自分が逸らさないように、夏取の頬に触れて、意を決した。
「いいや。お前の母親はとっくに死んでるよ」
物凄く重要っぽくは言ってみたけど、実際、夏取は既にその事実を受け止めているし──進路希望に『死んだ母親に会いたい』と書いたのも彼女自身。だから俺が告げたのは周知の事実で、もう終わっていること。
ただ一人、受け入れられていないのは、目の前の誰かだけだ。
「……丁は、何処にもいかない」
「夏取ちゃんがやっているのは母親のフリ、演技、真似事なんだ」
「丁は、ずっとここにいるの」
「そんなことをしたってお母さんは戻って来ない。理想を妄想しているだけのただの遊び、分かってるだろ」
「丁は、誰にも渡さない」
「君じゃあ母親にはなれないんだよ」
俺が言うと彼女は糸が切れたみたいに、息を引いた。
それから小さく笑って、どんどん大きくなっていて、その内家中に響いているんじゃないかとも思えるような大声になる。
喉の奥を引き裂く痛々しい声を上げる彼女は──そりゃもう超怖い。
「ふふ……あはは」
徐々に萎んでいく笑い声と共に、夏取は力なくフラフラと立ち上がって、視線は何処を向いているのやら。
「丁はどこ」
「お前がそうだろうが」
「……あの子さえいなければ、ワタシは幸せだった。本当に殺したかったのは自分じゃない。丁を殺して、ワタシは死にたくなんてなかった。あの子が羨ましい。笑顔も泣き顔も全部鬱陶しい。死んで欲しいと思うくらい」
これは、なんだ。
彼女は何を言っている? 夏取が母親のフリをしているのなら、何故そんな事を言う?
自分を殺したいなんて。
「……お前まさか」
「ねえ、丁はドコ?」
「だーかーら、それはお前だって何度も──」
その瞬間、俺は反射的に、咄嗟に腕を上げていた。
具体的な説明をするなら、夏取が何かを手に腕を振り上げていたから。あれこれ考える前に防御の姿勢を取って、
「ッぅ……」
次に気が付いた時には、もう倒れていて、何かに頭をぶつけていたと思う。
彼女の手から物が床に落ちて、甲高くて鈍い音が響いてようやく──俺は花瓶か何かでぶん殴られたんだろうと理解出来た。
威力は右腕に走る鼓動にも似た鈍痛から、かなり容赦の無い一撃だと。
だって俺ぶっ飛ばされてるもん。加えて下駄箱に頭部を強打したもんだから、ヒリヒリと痛むし、頬を何かが伝っているから、涙じゃなけりゃ血も出ているらしい。
「ま、待てよっ……夏取ちゃんッ」
視界の端で、彼女が廊下を歩いて、階段を昇っていくのが分かる。
何処に行くのか知らんがとにかく止めないといけないんだけど、どうにも体が言うことを聞いてくれない。
こういう時、漫画とかだと主人公は立ち上がるらしい。いやいや実際には絶対無理だよこんなもん。だってめっちゃ痛えもん。痛みに体を丸めたり、蹲ったりは出来るけど無理。無理なもんは無理。
システマとか全集中とか無理。
「い、いてえ……いてえよぉ……死ぬ、死ぬ……死ぬ?」
ちょっと待て、俺は今何を直感した? 思い出せ思い出せ、痛い。夏取母は、死にたくないと言っていた。痛い。夏取に死んで欲しいと言っていた。痛い。痛い痛い。
痛い。
死ぬ。死んで欲しい。本当は死にたくなかった。
「そうだ、さっき俺……いてえいてえいてえッ!! あークソっ!! あのクソ女マジ許さねえ!! 痛えし訳わかんねえし、高橋先生もこんなこと俺にやらせやがってッあのクソババアっマジ殺してえッ!!」
一頻り鎮痛剤として他者への恨み辛みを叫んでみたが、一向に痛い。
「スゥ、スゥ、スゥ……よしッ、クソ痛え!!」
リズム良く呼吸して勢いで何とか立ち上がると、動かない右腕を、眉間から滴る血液を呪いながら、暗がりなので壁に体を打ち付けながら駆け出した。いや、駆け出したというより、実際は亀のような足取りだったけど。
階段を昇り、痛みと、そもそもなんでこんなに必死になっているのかという疑問を引き摺って、廊下を這っている時、
聞こえて来たのは──歌。
歌詞などは全く頭に入ってこないけど、綺麗な声で、綺麗なメロディで、眠る前に親が歌ってくれそうな、そんな雰囲気。暖かくて穏やかで、寂しくて遠い記憶みたいに寂しい、そんな歌。
こんな歌も歌えたんだな、と。
「夏……取、ちゃん……」
転がり込むように入った、彼女の部屋。
薄暗くカーテンから溢れる光で写っているのは影。
椅子の上に立って、天井から伸びる縄に首を掛けて、気持ち良さそうに歌う夏取の姿だった。
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