19話 もういっちゃうの?

 一瞬だけ理解が追い付かなかった。


 何故今それを聞くのかと、考えてしまったから。


「丁はどう? 学校で上手くやれてるかしら」


 彼女は自分のことを『丁』と名前で呼ぶから。一瞬だけ困惑したけれど、色々と納得したよ。


 彼女は夏取ではあるが、どうやら彼女ではないらしい。暗闇で表情こそ窺えないが、その穏やかな口調と同じような、笑みを浮かべて言っているのだろうと思う。あの明るい顔ではなく、


 彼女の母親として、そこにいる。


「折上君は、丁と仲が良い?」


 今俺の目の前にいる彼女は彼女の母親として、話しているのだ。彼女は自分の母親を『自殺した』と言っていたが、とんでもない。ちゃんと生きていると思う。


 彼女の母親は彼女の中で、まだ息づいて、根付いてやがる。


 明かりの無い部屋。スマホのライトで僅かに照らされただけの仄かに暗い一室で、雨粒と遠雷を聞きながら、どうやらこれはもう、始まってしまっているらしい。


 夏取丁の狂気に、向かい合わねばならない時。


「ええ、知り合ったばかりですが僕は彼女のことをとても大切に思っています。いやーそれにしてもお母さんは見た目が若々しいですねぇ。それこそ同年代にしか思えませんよアハハ」


 とりあえずの先制にお世辞と探りを入れてみる。というか、寧ろまんま同年なんだけれども。


「うふふ、そう? ありがとう」


 と、彼女の母親?は言った。どうやら自分が魂であるという認識や憑依系ではなく、見た目に対する反応から、そこに存在しているというでやっているらしい。


 大丈夫大丈夫。お前なら絶対出来る頑張れ俺。


「でも良かったわ。ほら、あの子ちょっと変わっているから、お友達が出来ないんじゃないかって心配だったの」


 変わっているのはお前のせいだけどな。


 しかし、ちょっと違和感を覚える会話だ。具体的に表せないけれど、確かにそこにある気持ち悪さみたいなものが──何か、ズレている気がする。


「うーん……」


 まずは確かめなければならないか。


 この芝居をどの程度本気で行なっているのかを。そして何故こうなってしまったのかを。


「……そういえば夏取……丁ちゃんは今どこに?」


「あの子なら1階でお菓子を準備しているから、そろそろ戻って来ると思うわよ?」


「そうですか。では好都合──あなたの趣味はなんですか?」


「?」


「男性の好きなタイプは?」


「え、え?」


「学生時代に好きだった人の名前を覚えていますか? その人の特徴は? 血液型、誕生日、部活、容姿、聞いていた音楽を、あなたは知っていますか?」


 矢継ぎ早に質問責めをしてみる。いやいやこれは別に口説いてるとかそういう事じゃなくて。必要な事なんだよ──夏取ちゃんが母親のフリをしているのか、それとも本当に魂とかがそこにいるのか。確かめる為に、個人的な昔のことを聞いてみているのだよ。


「ごめんね。ちょっとよく覚えていないの」


 暗くて良く見えないけど、確かに言い淀んでいる気がする。


「何も覚えていないんですか。へー」


 まあこう言われちゃったらお手上げなんだけどね。


「……折上君は、何をしにここへ来たのかな? ワタシのことはもういいでしょう?」


 暖かみのあった声色が、平面で冷たいものに変化していた。明らかに分かり易い動揺と、何だろうこれは──苛立ちか? つーか何だこの異常な状況は。やっぱりいますぐお家にかえりたい。


「……ねえ、君はあの子をどう思ってるの?」


「あはは、まあまあ。というかブレーカーを戻さなくて良いんですか?」


「そうなの? 折上君って面白い子ねー」


 面白くない。寧ろ面白さを一切排除した言葉だけど。


「……えーっと」


「そうそう。そうなの。丁は昔から歌が好きで、いっつもどこでも歌っていたんだよねえ」


 なんだ、会話が噛み合わない。


「あら、もうこんな時間。晩御飯の支度をしないと」


 彼女はどこかに目をやって、そこには何も、ただの暗さだけしかないのに、そんなことを呟く。


「お、お母さん?」


 だから俺は、様子のおかしな彼女を、ただ心配して言っただけのつもりだった。


 だけどそうしたらさ。


 彼女の瞳が、ギョロリとこちらを向いて、反射の無い真っ暗な視線が瞬き一つなく、俺を見る。


「アンタに『お母さん』なんて言われたくない。お前さえいなければ、ワタシは」


 微動だにせず、『ワタシワタシワタシ』と何度も繰り返していて、ぞわりと、気色の悪い悪寒で身が震える。何度も何度も同じ速度と高さで繰り返される言葉。


 ワタシワタシワタシワタシワタシ、


 オマエ、


 と。そこに居るのはあの夏取の姿なのに、そこに居たのはもう、俺の知っている夏取ではなくて、ただじっと、真っ黒な両目がこちらを向いていた。


 ここにこのままいちゃいけない。


 そう思った。それだけしか考えられなかったんだ。


「アナタハテイヲドウスルツモリナノ?アハアアハハハ」


 そうして区切りのない言葉が耳に届いた瞬間、


 恥も外聞もなく、抜けた腰で這うように部屋を出た。


 薄暗い廊下を駆けて、階段を転がり落ちて、ただ明るい場所に出たくて──気が付いたら玄関に倒れ込んでいた。


 甘く考えていたんだ。俺はただ、夏取が母親をフリをしているだけで、ちょっと突っつけばすぐに綻ぶって、簡単に思っていた。だが実際は違う。


 あれは、そんな生優しいものじゃない。もっとちゃんとした病名の付けられるナニカだ。


 怖い、恐ろしい。


 それだけしか自分になくて、それすらも支配出来ないままで、鍵の掛かった玄関の扉に縋り付く。震える手付きでチェーンが上手く外せなくて、何度引っ張っても俺の力じゃどうしようも、


「あれ、もう帰っちゃうの?」


 その一声で、手も震えも一斉に止んだ。振り向けず、ただ足音だけが聞こえている。


 ゆっくりと階段を降りる足音が、最後の一歩から、擦る音へと変わる。


 同じ階層に、あれが居る。


 そう思った瞬間、意を決したのかそれともただの恐怖故か、俺は振り向いてしまった。


「ほぉら」


 白く細い手が伸ばされていて、呼吸が止まりそうになる。何をされるのか、何が起こるのかは知らないけれど──思ったのは『もう駄目だ』と、そんなこと。


 しかし、


「……開いたよ。鍵」


 その手は俺の顔を通り過ぎるとチェーンに伸ばされていて、耳元で鉄の衝突する音が聞こえる。ガチャリと鍵が開錠された音がする。扉が開かれて、全身が一気に青白い外の光に包まれた。空が雲に覆われていても雨が降っていても、こんなに太陽は明るいのだと思って──雷の閃光が、夏取の顔を鮮明に映し出した。


 確証は無い。


 だけどもそれは確かに夏取の、俺の知っている彼女の顔だと、何となく、


 泣いているような気もして、震えが止まっていた。


「やっぱ……まだ帰れねえや」


 そういえばスマホを部屋に置きっぱなしだし。


「ドウシテ?」


 俺は確かに一度は逃げようとしたけれど、実際今でも滅茶苦茶逃げてえけれど、このままじゃああまりにも情けない。逃げてと言わんばかりに鍵を開けられたら、ついつい逆のことをしたくなってしまう──それに少しは仕返しをしないと気が収まらない。格好がつかない。


「お前こそ、どうして家に呼んだんだよ」


 彼女は当然答えない。『助けて欲しかったから』って言ってくれりゃ楽だけど、今見えているのは夏取ではないから、返って来たのは視線だけだった。


 だから決めた。


 深く息を吸い込んで気を落ち着かせる、なんてやってみるけど上手くはいかない。それでも吸って吐いて呼吸を整えたのは、これから告げる言葉が絶対に震えないようにと。届かない事があってはならないと。

 

「今から、お前の母親を殺してもいいか?」

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