16話 雨雨降れ降れ母さんが、

 内容など何一つ頭に残っていないような会話。浪費した時間は戻らず、どれだけ金を積もうと手に入らない。しかし、人はまた繰り返す。ただ楽しかったと、その記憶だけが残っていれば充分だから。

 

 終わった後の寂しさも忘れる事が出来ないから。


 

 建物の屋根下から雨除けへと移り、避けながら、二人ではしゃぐのが楽しくて、結果びしょびしょになりながらの小走り。多少の後悔も、彼女の飛び回る様子が面白可愛くてどうでも良くなった。


 あと家に呼ばれてそれどころじゃなかった。


 ようやく辿り着いた駅から電車を経由し、心を鎮めて、現在は夏取邸の付近であるらしい住宅街。


 意中の女の子の家に行くというだけで訳分からんくらいテンション上がっているけれど、ここからは流石に距離があると思うし、何より街中と違って雨粒を避ける手立てもない。


 なので、彼女にはコンビニで買った傘を『ん』と某田舎少年風に、一つ手渡した。


 彼女はまだまだ雨の中を飛び回り足りないようで、『えー、いらないのに』とクソ馬鹿野郎発言をかまし、見るからに不服そうな顔で受け取っていたが、


「出先ーで、ぬれたーつま先ー、指先ー、お先ーにいくよー、折上くーん」


 一歩前からとんでもねえ歌が聞こえて来ていて、このように、今ではもうすっかりご機嫌である。


 ちなみに、勿論、相合い傘を企てなかったわけじゃないが、それはもう少し俺達の距離感が甘酸っぱくなってからの方がいいんじゃないかなという極めて合理的な判断に基づいて、渋々傘は二つ用意した。正直言ってかなり後悔がなきにしもあらずだし、夏取ならば簡単に受け入れてくれるだろうとも思ったけど──どうしてか気が引けて、結局は断念したのだ。


 しかしそれにしても、


 クラスメイトを家に誘うとは何事だこの女。いや全然俺としてはウェルカムだし、寧ろウェルカムされて良いんですかとも思うけれど──という旨の話をオブラートに包んで彼女に告げたところ、返答の代わりに返されたのは思いっきりの怪訝な表情、それから『友達を家に呼ぶって普通だよね?』とあまりにも純粋な疑問を無垢な瞳で言われてしまって、もう脳内パレード状態である。


 が、これは人類の月面着陸が如く偉大な一歩となるだろう。


 何せ今から家に呼ばれるのだから。


 加えてグッジョブな点はお互いが少々濡れているところである。上手くいけば『タオル使っていいよ』とか『良かったらシャワー浴びていいよ』とか『晩御飯食べていって』とか『泊まっていって』とか湯上がりの夏取を拝めるとか、そんな事は露程も期待していないといえば嘘になるくらいには、俺は舞い上がっています。


 しかし、こんな、見ず知らずではないけれど、しかし知り合って間もない男を家に上げようとは、正直言うと俺はこの少女が少し心配になってきてしまっていた。


「なあ、本当に家に行っていいのか? もう少し関係が進展してからじゃないとお父さんに『お前のようなガキに娘はやらん』って言われたりしない?」


「あははっ、今家にお父さんいないからそんなコト言われないよー」


「OH、ファンタスティック」


「ファンタスティック?」


 くるりと回って、彼女は言葉を繰り返した。僅かに滴る毛先を垂らしながら、微笑んで、首を傾げる。


 そんな様子に、俺はただひたすらに『うんうんうんうん』と頷いていたと思う。


「あははっそっかぁ」

 

 またまた、くるっと回って背を向けて、夏取は傘を回す。


「折上くん」


 滲んだビニールの向こうで、彼女はどんな顔をしているのだろう。


「ありがと」


 どんな表情で、そんな事を言ったのだろうか。


「……なんのお礼?」


「今日のこと。こんなに楽しかったのは久しぶりだった」


「サイゼに行っただけだけどな。それにメインはこれからだぜ」


「メイン?」


「あいやなんでもないっす」


 慌てて取り繕って、実際はわざと聞こえるように言ったのだけど、残念ながら夏取はこれっぽっちもやっぱり意識とかはしていないようだった。


 しかし暫く無言が続いてしまっていて、脳裏に不安がよぎり始めていた頃。


「ワタシね。折上くんと初めて会ってから、ずっとあなたを見てた」


 突如呟かれた内容に、な、なんだこれは。と内心慌てふためいてしまいそうになるような、これから告白でもされるんじゃないかとも思えるような言葉を彼女が発したので、思わず傘を持つ手に力が入る。


「いつもふざけてばっかりで、授業中だってそう。こんなに何を考えているか分からない変な人、初めて会ったって思ったよ」


 と、夏取は足を止め、俺も足を止めた。微妙な距離は、水溜り一個分ほどしかない。


「お前に言われたくねー」


「……うん。そうだよね。そのはずなのに、あなたには友達がたくさんいるでしょ? 羨ましい、あー羨ましいなあ」


 泣いてる、のかな。


「いつも誰かに囲まれてさ、みんな楽しそうにしてる。楽しそうに、させてる折上くんが、ワタシは羨ましい」


 震えた声でそう思った。揺れている背中で、肩でそう思っていた。


 だが突然彼女は振り返り、自分が抱いていた想像とは真逆だったと知る。


「丁と同じくせに」


 その時の、夏取の純粋な笑顔は、気を引き締めさせるにはあまりにも充分に足り過ぎていて──数秒の間、彼女と目を合わせている間は、遠くで響く雷と、薄暗い空から降り落ち、傘に当たる音だけが聞こえていた。


 両親がいて、妹がいて、仲は良いと思う。喧嘩もしないし、愛情も金も充分に注がれているから。虐待されているということもなく、特に変わった家庭環境でもなく、突飛なことなど何もない。強いて言うなら変わっているのは名付けくらいだろう。


 学校に行けば沢山友達がいる。失恋の経験は多いけれど、特筆するようなトラウマやいじめの過去もない。どこをどう、色んな角度から見渡したって、俺は普通の高校生だ。


『丁と同じくせに』


 それなのに、だ。彼女が言った言葉の意味を理解出来ない。見た目よりもずっと開いている距離のまま、漠然とした気持ち悪さを抱えたまま──俺達は無言で歩き続けていた。


「折上くん、着いたよ」


 足元の水溜りを眺めながら進んでいると、気付けば先を歩く夏取が立ち止まっている。


「……へー、結構デカいとこに住んでんじゃん」


 黒い門は水が滴っていて、見上げると2階建ての、如何にも裕福な邸宅がそこにはあった。四角い形状をした、白を基調する一軒家。今風のデザインで建てられた子綺麗。庭があって、シャッターは閉じられた車庫の中身はさぞ高級な車が停まっているのだろうと思える。


 これで表札に『広瀬』と書かれていなければ、何も文句は無かったよ。


 一瞬彼女がガチで間違えているという可能性を危惧したけど、あまりに淀みのない動作で鍵を取り出したもんだから、どうやらこの家に本当に住んでいるらしいと、ホッとしたような、何というか。苗字が違うとは、まあそういう事なんだろう。元々『広瀬』だったのが、今は違うと、ただそれだけだ。


「ただいまー! お友達連れてきたよー」


 玄関に入るやいなや、夏取は元気ハツラツに声を上げる。


 父親はいないと言っていたが、他に兄弟でもいるのだろうか。


「う、うい。お邪魔しまーす……」


 家に二人きりだとばかり思っていたが、残念。いやいやまずは外堀から埋めるのも悪い手じゃないか──と、キョロキョロ挙動不審なやべえやつっぽくおっかなびっくり挨拶をして、辺りを見回す。


 値の張りそうな花瓶、しかし花は入っていない。玄関に写真は置かないタイプで、靴が……少ないな。それにどう見ても女性用のものだけ。父親と暮らしているんじゃないのか?


 と僅かに香る不思議に、首を捻ったその時、


「いらっしゃい。あら、君が丁のお友達ね」


 唐突に、夏取は振り返って言う。


「は?」


 意味が分かるが、何をどう、うんまあ、ちょっと違和感のある言葉に、俺は思わず口籠ってしまった。


「話は聞いてるわ。寒かったでしょう? 何か暖かいものでも淹れる?──あ、それだったらココア飲みたい!──ふふっ、ほんとに丁はココアが好きねえ」


 コロコロと表情を変化させてお話をする彼女の姿に、覚えた違和感は膨張を続け、高鳴る鼓動が漠然とした不安をも募らせていく。


「じゃあまずは折上君にタオルを貸してあげて。勿論あなたも、ね?──うん、分かった! 折上くん、2階にワタシの部屋があるから先上がってくつろいでてー、あ、変なことしちゃだめ、だよ?──こら丁、早くしないと風邪を引くでしょう?──はーい。じゃあ折上くん、ワタシちょっと行ってくるねー!」


 え、逝ってくるっていうかもう大分イッちゃってる気が……え、この子何してんの?


 明言しておくが、この玄関にいる人間は俺と夏取の二人だけ。だからこそ、目の前で起きている事に対し、どうしたものかと頭を悩ませてしまう。はっきりと言葉にするなら、


 夏取がで二人分、喋っている。


 声色を変えて、一人は元気ハツラツに、もう一人は穏やかに話している、そんな風に。


 ただそれだけなのだけど。


 だってあまりにも唐突だったし、冗談にしては面白くない。いやいやどちらかといえばやっぱり冗談で済ませてくれた方がよっぽど良いけれど、多分彼女は本気でやっている。


「……え、ガチ?」 


 そしてこういう場合、動揺した人間がとれる反応はあまりに少ないのだと、俺は幸か不幸か、実感していた。


 響いた遠雷がゴングのように聞こえて、俺は、通路の奥に駆けていく夏取の背中を暫く見つめていた。

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