15話 グラスは一人一つ

 心の傷と体の傷は違うと言うが、実際には殆ど変わらない。目に見える違いが出る事だって人によってはあるだろう──そういう風に、上手い具合に、人間は出来ている。


 深い傷を治したいなら、消毒の滲みに耐えて、膿があるなら抉り出さなければならない。血が溜まっているのなら、切り刻んで抜かなければならない。骨も筋肉も神経も内臓も、重大なものは、表面からだけでは治療に限界がある。


 勿論手を尽くしたって痕は残るし、完全に治らない事もある。でもやっぱりそれは、心も体も同じ事なんだろうと。


 生死に関わる事だってあるんだから。


 まあ、この世界に溢れている傷の殆どは、放っておいても問題無いものばかり。例えば、口内の火傷なんかがそうだろうか。まあそんな事はどうでも良くて、


「ああ゛舌が痛え……喉も痛え、おまけに指先の感覚も無い」


 たまに無性にコーンスープを飲みたくなってしまう日が人間には存在するけど、俺はどうやら今日がその日だったようで、メインのパスタを食べ終えた後に、気が付くと追加でコーンスープを頼んでいた。しかし、これを口に含んだ瞬間、俺は今後、もうこれを口にすることは無いだろうなという寂しさと、後悔が押し寄せていた。多分マグマなんかと同じ温度だったからである。


「慌てて飲むからだよ。コーンスープ、店員さんは『熱いから気を付けて下さい』ってちゃんと言ってくれたのに」


 夏取はそれみたことかと、ご満悦の顔をしていた。


「いや、てっきり『熱々のカップルですね。お幸せになって下さい』って言ってるかと……」


「あははっおかしいっ、折上くん、すごい聞き間違えしてるよ……ぷぷぷっ」


 夏取が『そ、そんな……カップルだなんて……』みたいな事を言う期待は一切していなかったけど、純粋に笑われるのは、それはそれで心にくるものがある。


「うるさいこの馬鹿チン野郎」


「口悪いなあもう」


「悪魔だなんだと、初対面で言ったのはどこのどいつでしょうか?」


「それってクイズ? えーっとなんだろう、悪魔、悪魔……分かった! 『あ、くまだ』で、クマさん?」


「おぉ、凄い。クイズでも何でもなかったのに、奇跡的に結構正解に思える」


 もう何度ドリンクを補給したかも覚えていないが、メインのパスタやらミラノやらを食べ終えて既に1時間程が経過している。実はこの後の予定を幾つか考えていたりもした。しかし、


「やったー! いえーい!!」


 夏取が楽しそうなので、まあ良いだろう。


 ドリンクサーバーの存在すら物珍しそうに眺めて、名物である間違い探しを『子供っぽいから』という理由で拒否しながら、内装で飾られている著名な絵画に『あれって本物?』と反応し、下らない会話を予想の斜め上から返す彼女を見ていると、


 紛れもなく高校生の姿がそこにあると、そう思えた。


 夏取の友人が下した『普通の良い子』ではなく『ちょっと変わっているけど、良い子』という、俺が期待する評価に変わる日も近いかもしれないと。


「本当、なんで友達がいないんだろうな」


「……え?」


「あやべ」


 彼女の嬉しそうな姿を見ていたら、つい、出てしまった。


 夏の日差しみたいだった笑顔が、みるみるどんより曇っていく。雨足が強まって、傘だけでは足がずぶ濡れになってしまうような。


 そんな顔にしないでくれよ。


「いや別に深い意味は」


 そう考えて、しかし、ここで踏み込むのは案外悪いことではないかもしれないとも思った。そもそもサイゼとはそういう普段溜まった鬱憤をぶつける場所だろう。ならばこの手の話題もまた場違いでもないし、間が悪いものでもない。


 まずはそう、自然な会話から。


「夏取ちゃんは好きな人っている?」


 これは別に個人的な興味だけで聞いている訳じゃなくて、高校生といえば恋バナで、更には万人に共通する話題だろうと思ったからで別に他意とかは全然ありません。


 彼女は少々浮かない表情を保ったまま、一拍唸ると、絞り出すように答えた。


「いないかな」


「よっしゃあッ勝ったァッ!!」


「へ?」


「何でもない」


 無意識に天へ突き出した拳をさっと収めてクールな顔を作り出し、改めて深く掘り下げる。


「好きなタイプは? 運動が得意とか、身長が高いとかさ」


「それよりもまずワタシは友達が欲しいよ」


 あ、ごめんなさい。


「俺がいるじゃないか」


「えー」


「『えー』とはなんだ貴様」


「折上くんと話してるとつい話し過ぎちゃうから、まだちょっと苦手なんだよね」


「俺の得意分野をそんな風に評価するやつは初めてだよ貴様が」


「お話が得意分野なの?」


「口先からこの世に生まれ出でて、寧ろ口先しかまだ生まれていないような男だぞ俺は」


「全身あるように見えるよ?」


「最近生えたんだよなあ」


 そんな脳内容量ゼロの適当な言葉に、彼女が返したのは、


「ふふっ……本当だね」


 僅かに憂いを帯びた微笑み。


 幼い印象をを受けていた言動が、そこだけは年齢よりもずっと大人びて見えていて、感じられた感情は例えようもない。このまま何処か遠くへ行ってしまうと、そんな風にも思える、儚い表情だった。


「女の子がふと見せる仕草っていうのは、どうしてこうも男心を擽るんだろう」


 そうして一人感傷に浸っていた時、


「ふぉぇ?」


 ストローの先端に紙を巻き付けて、吹き飛ばしている夏取の姿を見た時の気持ちは、これまた例えようもなかった。


 それからも俺達は時間を浪費する。


 これでもかという無意味な会話に花を咲かせていて、時計を一度も確認する事は無かったのだ。それほど純粋に、無意識に、この時間を楽しんでいたのだと思う。何故それほどまでに没頭出来たのか検討は付かない。判断をする暇さえも惜しんで話し込んでいたのかもしれない。


 だからだろうか。


「って、もう3時間もここにいるじゃねえかっ」


 ふと、自然に会話が途切れた瞬間、時刻を確認して目を丸めた。


「え、ほんとに!? すごーい新記録!!」


「もう午後3時だぞ。どうする?」


「おやつを食べる」


「子供かな?」


「せんせー、高校2年生は子供に入りますかー?」


「うおっほん。えー、校則によるとですね……って、これじゃあまた3時間経っちまうじゃねえかッ」


「あはあっ、ねえ、みんなもこんな感じなの?」


「そうだよ。願いは叶ったか?」


「どうかな。思ったよりも面白かったけど、でも、たまにで良いかも」


「同感だな、つってもまた来ちまうんだよーこれが」


「うん……また、きたいな」


 そうして夏取の呟きを最後に、俺達は同時に席を立ち上がった。


 終わってしまえばあっという間。


 会計を済ませる際、レジを離れる瞬間、彼女の鼻歌をBGMに店の扉に手を掛けた時、込み上げる寂しさと力が抜けていくような感触に、足取りが重くなっていた。何もかも、楽しいことが全部終わってしまったように思えて。


 3階建てのビルの3階に位置するサイゼ。


 階段を降りていくと、逆上せ上がった熱が一気に引いていく。


 夢から目覚めて、現実が押し寄せるような感覚だった。


「ね、まだ時間ある? ワタシしたいことがあるんだ」


 そんな時に、夏取から掛けられた言葉。


「したいこと? 時間はあるけど、門限もあるし大したことは」


「うん。あのね」


 彼女の声に耳を傾けながら、外が近付くにつれ、鼻先を何かの香りが撫でる。


「ワタシの家にいこーよ」


 濡れたアスファルトの、冷えた空気の匂い。すれ違う人の手に携えられた傘。


「え、ガチ!?」


 ビルから出ると、雲によって日の光が遮られた街は暗く、街灯の反射に混じって、雨の雫が何もかもに降り注いでいた。

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