8話 1円の価値

 ここで明言しておくけれど、これは失恋の影響で臆病になった男の話ではない。経験から学び、日々成長しながらも新しい道を模索しようと足掻く為の語り。


 人は恋をせずにはいられない。それは子孫の繁栄など遺伝的な観点からも、誰かと一緒にいたいという心理学的観点からも明らかで、それを否定することはつまり、人間という種族の根本から自分を変えるしかないのだ。何事にも例外はあるけれど、少なくとも俺には不可能な話だし、何より恋人が要らないなどと考えたこともない。


 さて、仕事モードに切り替わったと言ったが、あれは嘘だ。


 確かにこのままいけば『気持ちのすれ違いから生まれる感動的な恋物語』が生まれる事ももなきにしもあらずだけど、しかし現実は非情であり、過去の恋愛経験から言って、寧ろ他の誰かに奪われる未来の方が可能性が高い。


 寧ろその可能性しか見えない。


 今、目の前にキャラクター性のある美少女が居て、チャンスが転がっているのだ。手を伸ばさない理由など無い。


 何故なら俺はカノジョが欲しいからである。


「ふぅ……」


 そうして一頻り、精神的にも身体的にも揺さぶりをかけたので、『まあとりあえず』と夏取を逃さないよう椅子に座らせてみた。ちょこんと借りてきた猫のように縮こまって、野良猫みたいに警戒心と猜疑心を露わにする彼女。


 俺は極めて紳士的に、安心させるように微笑みを向ける。


「さて、ちょっと落ち着いて話そうか」


 夏取は『お前が言うな』と顔に書いてあるようだった。


「ワタシ、もう帰らないと」


 ぎこちなく辿々しい覚えたてのような言葉で、かつ分かり易い嘘をつかれる程度には第一印象も最悪らしい。


「翼を下さい」


「どうぞ?」


「さっき俺が歌っていた曲のタイトルだよ。知らないのか?」


「……流行りの歌ってあんまり聞かなくて」


 夏取は目線を伏せる。恥じているのか、それとも何か引け目があるのか。どちらにせよ、これについては嘘ではないと思える。しかし嘘でないとすると少し妙。日本の歌百選にも収録されているというのに。


「なるほど。じゃあさっき君が歌っていたのはオリジナルソング?」


「き、聞いてたの!? あわわわわ……ち、違くて、あ、あれはその、あの……」


 表情のコロコロ変わる少女だなと、とび上がって両手を振り乱し、上手い言葉を模索しながら否定するも、やがて俯いて塞ぎ込む姿を見て思う。可愛い。


「セットセットで、髪をセットー!!」


「そんな歌じゃないよ!!」


「ではどんな歌か、もう一度聞かせてくれないか?」


「……嫌」


「1回も2回も変わらねえだろ、な?」


「ん」


 不機嫌そうな夏取から差し出されたのは、ぷにぷにと柔らかそうな掌。


 皺の少ない、見ただけで柔らかさを感じさせるような手に思わず見入るが、しかし行動の意図は読み取れない──だから俺はそっと、指先で突いてみる。


「っ、違う」


 思ったよりもすべすべさらさらで、しかし弾力もあり、突いた指先が跳ね返された。


「じゃあ……親指の第一関節に、仏眼がある。凄い凄い、君は他に無い才能を秘めた持ち主だ。それに頭脳線が手首近くまで下がってる。これは芸術線と言って、まあつまり結構優れた手相をしているぞ」


「え、ほんと!?」


「ああ。以前、女子にモテるために手相の研究をしていたから間違いない」


「他には他には!? もっと教えて!」


 夏取は身を乗り出すと、まんまるお目目を輝かせる。


「ってちがーう!! 丁が欲しいのはお金!!」


 と、ここでようやく彼女の口から行動の理由が語られ、加えて本来の一人称も知れた。『てい』というより『てぇ』と舌足らずに、更には自らを名前呼びする彼女は、年齢よりもずっと幼く感じられる。


「奇遇だな。俺も鑑定したんだから料金を貰いたいと思っていたところだ」


「え、お金取るの?」


「そりゃそうだろ。サービスなんだから」


「うっ、あ、あんまり持ってないよ……いくら?」


「100万寄越せ。払えないなら──歌を聞かせて貰おう」


 うぐぐ、と顔顰めた、かと思ったら


「……ざ、残念でしたー。丁の歌は100万と1円だよー。惜しいちょっと足りなかったねー」


 次の瞬間には、恐らく渾身のドヤ顔で胸を張っているつもりだと思える。


「はい」


 言われて即座に財布から最も軽い硬貨を取り出すと、俺は夏取の掌に置く。


「1円ちょうど」


 彼女は最初こそ満足げな表情をしていたが、置かれた硬貨じっと見つめると、やがて顔を引き攣らせる。『ぐぐぐ』と苦虫を噛み潰した声で唸る姿を見て、何だか子供相手に悪戯をしているみたいな居た堪れない気持ちになって。


「ほっほっほ、良かったねー1円貰えて。それで何買う? というか何が買える? おほほほほ!!!!」


 しかし俺はこれでも必死に感情を押し殺しているのだ。グッと堪えているのだ。


「っ……このペテン師!! お前は悪魔の手先だ!!」


「いや違う、資本主義が悪いんだ。俺は操られているだけで、人は、お金には逆らえない……受け止めるしかないんだ。それが生きていくってこと、だろ?」


「……うん」


 いや、うんじゃないと思うぞ。


 さて、


 俺は黒板上部に貼り付けられた時計に目をやって、最終下校時間が近付いていることを確認した。切り上げるならチャイムの音よりは言葉の方がずっと印象が良いだろうと。


「じゃ、そろそろ帰るわ」


「え?」


 そうしてポカンと口を開ける夏取の心情は、『もう帰っちゃうの?』なのかそれとも『結局何の話だったの?』の二つが入り混じったような何とも言えない感じなのかどうかは知らないが、まあどっちでも良いだろうと。


 鞄を背負って、


「あ、その金はお前にやるから。バイバイ」


 吐き捨てるように言って、教室を出た。

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