第1部 通算100回目の失恋開始

4話 先生と密室で二人きり

 また、始まろうとしている。


 失恋する度、人は成長するらしい。だがそれはやっぱり気休めなんだろう。経験になっただけで、学んだだけで、失ったことに変わりはないのだから。


 それでも俺は、また進んでしまう。


 分かっていて、それでも、好きを諦めたくはない。



「先生、もう帰って良いですか?」

 

 カーテンを閉め切られてはいるが、窓ガラスの向こうからは部活に精を出す声と、管楽器の音色が聴こえてくる。床に敷かれた畳は、寒々しい教室とは違い、上履きを脱いで上がると柔らかい感触がした。


 だがここは生徒指導室。


 寧ろ圧迫感さえ覚える一室は、外と隔絶されていて、緊張感を走らせる者が大半だろう。

 

「まだ部屋に入って3秒も経ってないわよ全く……他の先生の時はちゃんと真面目に授業、受けてるよね?」


 深い溜息と共に浮かない顔をするのは担任であり、現代文を担当する、


 高橋伊来たかはしいくる先生その人。


 年齢は28歳、独身。穏和な性格で滅多に生徒を叱ったりはせず、しかし、生徒指導を任されているのだから、根が真面目なのか、それとも上司に押し付けられたかのどちらかだろうが、上記のセリフを鑑みるに、恐らく後者であると推察出来る。


「ういっす」


 吹奏楽部副顧問の役職も担っている彼女の脇には、数冊の楽譜が置かれていた。


「嘘を付かないで。私のところにはね、それはもう毎日のように苦情が殺到しているの。『高橋先生、アイツはどうにかなりませんか』とか『この前なんて授業中にカセットコンロを使って鍋をやっていたんですよ!?』とか、いや本当に、折上君……聞いてる?」


 部活にも行かなければいけない、まだ纏めたい書類がある、来週の小テストの問題が決まっていないと、そんな感情が表情に表れていて、どうやら話を早く終わらせたいという気持ちはあるらしいが、区切りまでにはまだ時間が掛かりそうだった。


「すみません。先生の真剣な表情が美しくて見惚れてました」


 勇気を振り絞った言葉、しかし返って来たのは巨大な溜息と、憂鬱な表情。以前は動揺に動揺を重ねて困惑する様子が見て取れたのだが、流石に1年近くも繰り返せば飽きられてしまったらしい。


「というか先生が聞きたいのはそっちじゃないでしょ?」


「担任としては同意しかねるわね……まあ、そうなんだけど」


 彼女は一度咳払いをすると、ようやく本題に入る意識を固めたようだ。


「君たちが2年生に進級してもうすぐ一ヶ月……羽佐木さんの様子について、何か変化はあった?」


 さて、何故ここで高橋先生がその名前を口にするのか、話せば長いが、纏めると、それは羽佐木のられていた過去が関係している。1年前の、学校側にしてみれば認知したくはない問題、ちょっとしたいざこざ、生徒間のトラブル。まあ要するにどこにでもある厄介事。


 その当事者が羽佐木で、俺は側から見ていただけの通行人だった。


「カレシが出来たみたいです」


 とりあえず、ここ最近で最も大きな変化として思い付いた事を報告した。すると高橋先生は『へえ』と感嘆の声を上げ、胸を撫で下ろす。問題の一つが片付いたと、肩の力が抜けたと、言葉にされなくとも理解出来るくらいに。


「そう、ありがとう……本当に、貴方が居なければどうなっていたか……」


「お礼を言われる筋合いはありませんよ、だって……代わりに先生がエロい事してくれるんでしょう? ゲヘヘヘ」


「そんな取引はしていません」


「チっ、ちょっとくらい恥じらってくれてもいいじゃんかよ」


「何か言った?」


「チっ、ちょっとくらい恥じらってくれてもいいじゃんかよって言いまし……いえ、何でもありません」


 と、こんな下らないやり取りももう何度目か知らないが、それでも受け答えをしてくれる先生には感謝している。いや時間の無駄である事は理解しているけど、沈黙は苦手だし、何よりこれは俺のアイデンティティのようなもので、そう簡単に治ってくれる癖じゃない。


 それこそ『ヒロインに恋する報われないサブキャラ体質』と同じように。


「私はね、これでも折上君の事を心配しているの」


 それは初耳だ。


「へー」


「1年前、私は『周囲から浮いた生徒を馴染めるようにして欲しい』と頼んで、貴方はそれを実行してくれて、幾つも成果も上げてくれた。本来なら教師の担うところを、あろうことか生徒である折上君に、委ねてしまった」


 話しかけているようで、しかし自分に言い聞かせるように、自らを戒めるように、先生は言った。


「別に気にしちゃいないっす。可愛い子と友達になれる、いいきっかけだったし」


「そう言うだろうと思っていたけど……貴方は他の子を救ってばかりで、自分の事を犠牲にしているんじゃないかって、私は本当に心配しているの」


「へー」


「誰とでも仲良くなれる、それは貴方の長所でもあり」


「短所でもある、でしょ? もう耳にたこ焼きが出来そうなくらい聞きましたよそれ」


「とにかく、心配なの……だから、もし困った事があったら相談して欲しい。だって貴方も私の」


「生徒だから?」


 何を隠そう、この高橋先生はいじめを認知していた一人で、それを見過ごし、俺に解決を託した張本人だ。そんな彼女から、そんな言葉が出て来たものだから、俺は思わず笑ってしまって、 


「羽佐木のいじめを、知っていてそれでも解決出来なかったアンタらに、相談しろって言われてもねー」


 ちょっとした茶目っ気のつもりで、しかし言ってから『あ、やべ』と気が付く。言ってしまったと、理解する。


 高橋先生の堪えるような口元で、潤み始めた瞳で、強く握られた拳で、伏せられた視線で、俺はやってしまったと。


「いやいや、これは別に責めているわけじゃなくて……いいですか先生」


 なので慌てて取り繕う。優しく紳士的に、落ち着かせるように。


「教師だからって、全部を背負う必要はないんです。貴方だって教師である前に一人の人間だ。手の届く範囲とそうでないものがあるのは当然の事。確かに解決すべき責任はあるかもしれませんが、それで先生が潰れてしまったら元も子もないでしょう。それに……僕はもう先生には随分救われているんです。こういう繊細な話が出来るの機会って希少だし、こんな話を聞いてくれるのも、多分、先生だけですから……」


 ここで重要なのは気遣いと、お前、という唯一性を持った言葉を投げること。


 俯いた顔がゆっくりと上げられて、瞳をじっと見つめた。そうして彼女の掌にそっと自分の手を重ねると、緊張が伝わって、強張っている事が分かる。だからあくまで添えるだけで、決して握らず。


 身体的接触もまた効果的であり、脈拍を知れば相手がどういう精神状態かを把握出来る。後は距離を近付けて、視線を逸らさないのがコツ──と、どっかの恋愛教則本に書いてあった気がする。


「……ほんとに?」


 古本屋にワンコインで投げ売りにされていたものだったが、彼女の表情を見るに、中々馬鹿に出来ないものだったようだ。家に帰ったら読み返してみるとしよう。


「はい、勿論……それで、一つ相談したいことを思い出したんですが、聞いて頂けますか?」


「う、うん……任せて。私に出来る事なら何でも協力するって約束する」


 そうして、これで概ねご機嫌は取れただろうと、添えていた手をパッと離して、


「カノジョが欲しいんですが、どうしたらいいですかね」


 本当に、現時点で最も切実な悩みを打ち明けることにした。


「恋人なら私だって欲しいんだけど、というかここ数年カレシ出来たことがないけど、寧ろ男友達もいないけど、それでも私に相談するのね。良いわよ。私だって教師、生徒が抱えている問題ならばなんでも」


「あ、いえ大丈夫です」


 打ち明けて、取り下げた。

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