2話 裏切りのバレンタインを語りたいんだよ俺は
あれはそう、1年前の、やけに寒いなと感じて目が覚めた、2月の朝。
カーテンを開くと、そこには見知った筈の近所の光景が別世界のものへと変貌していて──雪が降っているのだと、寝ぼけた頭でも直後に理解出来た。薄い灰色に染まる空から、まるでケーキの上に粉を落としたみたいに舞い落ちる結晶に、陰鬱とした気持ちはいつしか消え去っていて、
「ちょっと待って」
羽佐木は食べ終えたお弁当を鞄に押し込むと、これみよがしに顔を顰め、こちらを睨み付ける。
「もうそういうのいいから。話すなら簡潔に」
「思わず鼻歌なんかも飛び出していただろうか。いつもは気も足も重い通学路を小走りで駆け出し、学校へと向かう。近所の小学生に混じって、降り注ぐ雪の舞いに合わせて足を動かす、そんな自分の姿が他人の目にどう映ろうと」
そうして俺が数行程語った時だった。
彼女は人でも殺めて来て、尚もこれから手を汚すような視線の後、優しく微笑む。純粋無垢とは口が裂けても言えない、悪気100%の下卑た笑みで、じっとこちらを見つめると、
「いい加減にしてよ京子ちゃん」
彼女が口にしたのは名前だった。逃げ場の一切を閉ざされた、女性の名前。
しかし、
「ごめんなさい。もうしません」
一気に血の気が引いて、殆ど反射的に精一杯頭を下げてしまう。何故なら、
「どうして謝るの? ウチはただ名前を呼んだだけだよ、ねえ……折上京子ちゃん?」
彼女の口から告げられたのは、自分が生まれてこの方コンプレックスであり続けている名前だったから。
「あああああッ、もうやめて、っていうか京子郎だから!!」
字面だけでは分かり辛いと思うが、キョウコでは無いし、それに俺系女子でも無い。
何ともまあ中途半端というか、どっちつかずな名前。
キョウジ、キョージでも良いがキョウコだけは絶対にやめて欲しいし、出来ればこの機会に名前だけでも覚えて帰って欲しい。幼い頃、誰かにからかわれてから、ずっと忌み嫌って来た名前。今の今まで、名前で呼ぶことを誰であっても、一度たりとも許した事はないしこれからも絶対に許す事はない。多分結婚しても苗字で呼ばせる。
それほどの覚悟が俺にはある。
だと言うのに、このギャルは。
「京子っ、京子ちゃん、京子?」
羽佐木の追撃は止まらず、尚もありとあらゆるイントネーションで責められる。絨毯爆撃された俺の心は更地となり、草木の一本まで全てが枯れてしまいそうで。しかし、そんな俺の醜態を見て満足したのだろうか、彼女は『ふん』と鼻を鳴らすと、少しは気が晴れたらしい。
「それにしても、折上の親って容赦無いね。まあ……ウチは個性があって良いと思うケド」
個性より、個々の性を重視して欲しかったのだが。
「良いわけねえじゃん。だってお前……『京』ならまだいいよ? でもお前『子』が付いたらお前、まじふざけんなよってお前……」
「完全に女の子の名前だよね。というか、苗字の方も中々じゃない?」
うるせえ。
「生まれておぎゃーするまでチンチンが見えなかったから女の名前しか用意してなかったとか……んでそのまんま『お、この子チンチンが付いているぞ、んーまあ京子に郎でも付けとけばいっか』って普通なる? ならなくね? 確かに現代、名前というのは多種多様を極める時代になったよ。俺なんかよりもずっと変な名前だっているだろうさ。でもよぉ……お前、チンチンが付いてんだから。なあ、もしかして俺はチンチン取った方が良いのか?」
「目の前に女の子が居るのにチンチンを連呼しないで」
「目の前に男の子が居る状態で涼しい顔でチンチンと言う女の子を俺は女の子とは言わない。もっとこう……恥ずかしげに顔を赤らめて『ち、ちん……って、何言わせんのよこの変態!!』ってなるのが女の子だと思う」
「折上は……そういう、女の子の方がいいの?」
羽佐木は少し口先を尖らせると、表情を曇らせて言った。
「可愛ければなんでも許せる」
「最低」
と、間髪入れずに、言葉の端が被るくらいの間隔の無さで飛び出した罵詈雑言と、冷ややかな視線。
「いやそれはおかしな話だ。女の子だってイケメンに惹かれるように、男の子もまた美少女の顔と胸と尻に惹かれるんだよ。お前だってそうだろが」
「外見だけに魅力を感じている女の子は少ないと思うよ。優しさとか包容力とか、一緒に居て安心するとか、そういうフィーリング的なモノだって重視してるんじゃないかな。知らないけど」
「そんなもん犬で代用出来るじゃん」
「なるほど、じゃあつまりカノジョのいないアンタは犬以下の存在ってわけね」
「あ、あああ……ああ、ああああああ」
羽佐木から放たれた言葉で、全身を雷に打たれたような衝撃が駆け巡る。何気ない会話だと思っていたやり取りから、突然飛び出して来た鋭い刃先に、脆いガラス細工の心が砕かれ両断されたようで、
開いた口が塞がらなかった。
「それで『裏切りのバレンタイン』って何? まあどうせ、誰かにフラれたとかそんなんでしょ? 下らない」
そうして鳴り響いた昼休み終了の鐘。同時に聞こえたのは、自分の心が崩れ去っていく悲鳴だった。
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