なんと呼べばいいかわからない

田土マア

なんと呼べばいいのかわからない

 私には共通の趣味をもった友達がいた。といっても実際に会ったわけでもない、最近Twitterでできた『友達』だ。

 それを友達と呼ぶのか。と言われたら返答には困るが、私にとっては友達であった。


 感情の起伏きふくが激しい私にとって手軽に書き込めるTwitterは言わば愚痴を溜めておくためのダムの働きをしていた。

 映画を見た感想、その日あった出来事、そこらの人と何ら変わらないツイートをすることもあるが、基本するツイートは愚痴ツイに溢れていた。朝から『なんか今日はイライラする』だとか『最近の芸能人はおもしろくない』『食べた昼食が美味しくない』なんて決して見る人がいい気分にならないツイートばかりしていた。


 そんなツイートばかりしていた私だったが、そんなツイートに対して「いいね」をくれる人が居た。それが私の『友達』だ。

 私が『もう嫌だ、私ってなんなの?』なんて病みツイをした時には心配をしてくれてリプライやDMを送ってくれた。


 友達は多趣味で色々なことを私に教えてくれた。

 バドミントンのスマッシュを打たせないラリーの仕方、水道周りについた錆の落とし方、美味しい卵焼きの作り方。すべて自分で色々試して見つけたものなのだという。


 それを私も実践してみたことがあるけれど、確かに完璧とまでは言えずとも実用的であった。


 友達はライフハック的なツイートもよくしていた。

 私はそれを試しては感想を伝えていた。

「そう言ってもらえるのはうれしい」と反応があることに喜んでいた。


 どんな人間にも少なからず自己顕示欲じこけんじよくはあるもので、私もツイートに「いいね」がつくと喜んだ。きっと友達もそうなのだろう。

 友達は別サイトにブログを投稿しているみたいで、投稿したら私に「投稿したから見てね」と言う。

 それを見て私はまた感想を伝える。そうして何気ない関係性の中でお互いがお互いを必要としていた。


 いつの日か友達のライフハックのツイートがバズった。

 有名なYouTuberにもたくさん取り上げられ、テレビでも紹介され、友達の人気は高まった。フォロワーもつい最近までは230人ほどだったのが5600人を超えていた。


 それから友達からの私のツイートに対する「いいね」が消えた。

それは私に対する「いいね」も消えてしまったように思われた。


 それでも特段そのことを気にしないように私は普段通りの私らしいツイートを続けていた。

以前までは病みツイをしたら必ず心配してメッセージを送ってくれていたのに。と私は更に深い闇に潜っていった。


 ただ相手にして欲しかったのかもしれない、ツイートに対する「いいね」それが私である私の存在そのものだと思っていた。だからそれがなくなった今、私は寂しい?悲しい?それともバズった友達が羨ましい?もうわからなくなってしまった。


 それを何かに例えるなら汚い色をしたまだら模様のような感じになるかもしれない。

 そんな複雑に入り混じった何かが私の胸にいた。

 決して目に見えるわけでもないが、確かにいる。それが胸につっかえて苦しくなる。


 溜めた愚痴のダムが決壊して溜め込んでいた分の感情が私になだれ込んでくる。涙も鼻水も止まることはなかったし口からも言葉が溢れてくる。

 気が付けば過呼吸になっていた。どこかで落ち着け、落ち着けと思ってみるけれど身体はそれをこばむ。


 この際出るものがあるなら全部出てしまえ。吹っ切れてそう考えてみる。


 しばらくして平常な呼吸ができるようになった。一向に涙が止まることはなかったけれど。



 気分が良いときにふと友達のいいね欄が気になってしまって覗いてしまった。

 別にそういう欄があるから除いたとしても罪には問われないだろう。罪悪感を感じている私に言い聞かせる。


 そこには1時間前に送信された知らない人のツイートから15分前のツイートなどたくさんのツイートが表示されていた。

 私のツイートがただただ目に留まっていない可能性もある、と思った。というかそう考えなければ私はきっとまた病んでしまうと思った。


 そしてその「いいね」されたツイートの多くが私が唯一そこらの人と同じようにツイートしていた映画の感想や日々の出来事だった。


 47分前。私のツイートと同じころにつぶやかれた昼食の写真、それには「いいね」がついていた。私も昼食の何気ない写真を投稿したはずなのに。


 そんなことを気にしてもしょうがないと私自身も思う。でも相手にされたかった。見てくれている、目に見える形でそう思わせてほしかった。

 きっと私のわがままだということは知っていても求めてしまう私が嫌だった。


――きっと友達の中にいた私は消えてしまった。忘れ去られてしまった。


 アニメのキャラクターも言っていた。「人が死ぬのは人に忘れられた時だ」って。友達の中の私は死んだ。私の中で友達はまだ鮮明に生きているのに。


 忘れられた人は何を思って生きればいいのだろうか。

 せめてもの記録に私のアカウントの最期にツイートした。


『この気持ち、なんと呼べばいいかわからない』


 ツイートされたのを確認してふぅと息を漏らすと画面には一番最初の「いいね」がついていた。友達だった。忘れないでいてくれたのかもしれない。

 でも私はもう消える。いなくなることに対しての「いいね」なのか、何に対しての「いいね」なのかもはやわからなかった。今までのツイートも他の誰でもなく、友達あなたに「いいね」して欲しかった。

友達あなたに相手にして欲しかった。


また一つ色が垂らされた。


――この感情、なんて言うんだろう。

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なんと呼べばいいかわからない 田土マア @TadutiMaa

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