第26話 氷山の一角

「大島君、ちょっといいですか?」


 放課後、皆それぞれ部活に行ったり、遊びに行ったり、帰路につくなり様々な生徒たちが行きかう廊下で千夏は一人の生徒を呼び止めた。


「……竹田先生?何ですか?」


 大島優、一年B組で剣道部。小学生の頃から剣道をしており、中学生の頃は全国大会出場も経験したことがあるようだ。今回の依頼者の坂梨聡美とは幼馴染である。


「ちょっとだけお話ししたいことがあるのですがいいでしょうか?」


 千夏が優の体を見るとテーピングされているが確かに痣と思われるものが腕や顔に散見される。夏服なのでなおさら見るに堪えないほど痛々しい。千夏が少し生徒たちに話を聞いたところこの大島優だけではなく、全ての剣道部員は元気がないようであった。


「……すみませんが別の時間にしてもらえませんか?部活の時間に遅れると……その、」


 優はその先を口にしなかった。顧問があの鬼の藤堂教師である。部活に遅れるとどんな目に合うかはさすがの千夏も少し想像できる。


「ええ、そうですよね。じゃあ、私も一緒に剣道場に行くのでその間だけならどうでしょうか?」


「え?竹田先生も剣道場に行くんですか?……俺は構いませんけど」


 そうして訝しがる優と千夏は揃って剣道場に向かうことになった。剣道場は一度校舎を出て、グランドに行く途中にある。時間にして2,3分あるかどうかという感じだった。あまり時間はないが、デリケートな話ほど回数を重ねる必要がある。今回はアイスブレイクだけでも十分である。そこを千夏はよく理解していた。


「高校に入って勉強の方はどうですか?」


「勉強ですか?今のところは特に困ってはいないですけど」


 これは千夏も分かっていて聞いた。大島優は特別成績が良いわけではないが、学年で50番以内に入る成績を収めている。優秀と言える範囲だ。


「そうですか。では高校生活は楽しいですか?」


「……楽しい?」


 そこで優は少し考えこむ。


「……よくわかりません。高校って楽しむ所ですか?」


 なるほどと千夏は思った。少なくともこの優の反応で二つのことが分かる。現状高校生活で優は楽しいと感じていないこと。そして、もう一つは優自身の心が麻痺している可能性があるという点だ。それは千夏に問いかけてきた点からわかる。


「そうですね、私は必ずしも楽しむ必要があるとは言いませんが、勉強も部活も楽しむと言うことは重要だと思っていますよ。小学生の頃や中学生の頃楽しくありませんでしたか?」


 そう千夏が尋ねると優はまた考え込む。


「小中学生の時は楽しかった……と思います」


 それを聞いて千夏は優に微笑みかける。


「そうですか。では高校生活も楽しくなるといいですね」


 そうこうしているうちに剣道場についてしまった。分かってはいたものの早いなと千夏は感じていた。欲を言えばもう少し話を聞きたかったはずである。


「すみません竹田先生。部活の準備がありますのでこれで」


 そう言って優は剣道場の中に入っていった。一人になってしまった千夏はさてこれからどうしようかと剣道場の前をうろうろしていた。その間にも足早に剣道場に入っていく生徒たちを見ながら千夏は兄である千春のことを思い出していた。やはり千夏にとって剣道と言えば千春なのである。


「ん?竹田先生ではないですか。どうしたのですか?」


 げっと千春は内心毒づく。その声の主は振り返らなくても分かる。藤堂一教師に間違いない。千夏は内心を悟られぬよう薄ら笑いを浮かべたまま振り返った。


「あ、藤堂先生。実は少し時間が出来たので藤堂先生の部活指導を勉強させて頂こうと……」


 心にもない口からのでまかせであった。


「そうですか!竹田先生にしてはとても良い心がけです。では是非道場の中で見学していってください」


 途端に上機嫌になった藤堂教師は千夏を中に案内した。千夏は相変わらず薄ら笑いを浮かべたまましまったと後悔した。とっさについた嘘で逃げられなくなってしまった千夏は仕方なく道場の邪魔にならない所で正座をして待つことに。


「……?」


 剣道着に着替えて部員たちが更衣室から出てくる。しかし、皆表情が暗い。千夏の存在に気づく部員もいたが話しかけてくることは無かった。もしかしたら藤堂教師になにか決まりのようなもので縛られているのかもしれないと千夏は思った。


「集合!!」


 剣道部の主将だと思われる生徒の掛け声で剣道部の生徒たちは一斉に藤堂教師のもとに集まった。


「……おせえな」


 藤堂教師がぼそりと呟くと部員たちはびくりと体を震わせた。


「中村、部活開始は何時からだ?」


「16時からです!」


「そうだな。今何時だ?」


 先程集合と声を掛けた主将っぽい部員は中村と言うらしい。藤堂教師は低く迫力のある声で中村と言う生徒に問い詰める。気の弱い千夏から見るとあんまりやくざと変わらない。


「……すみません。16時には間に合ったと思ったのですが」


「いいや、俺の時計では五秒過ぎていた」


 藤堂教師はそう言って自分の腕時計を見せる。千夏は「(ええぇ、たった五秒って。しかも自分の時計)」とドン引きしていた。


「尾崎、なぜ俺がこんなに時間にうるさいか分かるか?」


「時間を守るのが社会の常識だからです!」


「そうだ。時間を守れない奴は社会人として失格だ。クズと言っても良い。時間を守れないと言うことは相手の時間を奪っているのと同じことだ。つまり、お前たちは今俺から5秒という時間を奪ったわけだ。違うか!?」


「「違いません!」」


 うんうんと頷く藤堂教師。藤堂教師は満足そうだが、この説教の時間で部員たちの練習の時間が無くなっていくのはいいのだろうかと千夏は心の中で思った。


「あー、それから今日は竹田先生が見学に来られている。俺の指導を見て勉強したいそうだ。竹田先生がいるからといって、練習はいつも通りやれよ」


「「はい!!」」


「よーし、じゃあいつも通りウォーミングアップから始めろ」


 ようやく練習が始まるようである。藤堂教師は竹刀を持ったままパイプ椅子に座り、部員たちを注意深く見ている。部員たちはまず円になって体操を始めていた。


 そこからは順当に練習は進んで行った。ところどころ藤堂教師の檄が飛んでいる。やがて部員はそれぞれ防具をつけて打ち込みの練習へと進んで行った。ここまで一切休憩なしである。藤堂教師はずっとパイプ椅子に座ったまま何やら指示を飛ばしていた。


「よーし、かかり稽古はじめ!!」


 藤堂教師が道場中に響くような声で叫ぶと、部員たちは一斉に打ち込みを始めた。


「(……うわぁ)」


 千夏は心の中で驚愕した。かかり稽古とは元打ちと呼ばれる相手に向かって休まず次々と技を繰り出していく練習法で、剣道の稽古の中でもかなりハードな練習法の一つである。人によっては地獄と称するほどきつく、終わったころには立てなくなるほど疲労する過酷な稽古なのである。しかし、さすがと言うべきか藤堂教師の鍛えた部員たちは力強く打ち込みを続けている。千夏だったら10秒と持たなかったであろう。


 30秒で攻守とメンバーが入れ替わりながらかかり稽古は続いていき、ようやく部員たちにも動作に疲れが見え始めたころ。


「よし!止め!!」


 藤堂教師の号令が入った。中村主将が「整列!!」と叫ぶと部員たちは一斉に藤堂教師の前に一列に並ぶ。


「着座!!」


 そして一斉に正座する部員たち。千夏はもはや軍隊の訓練を見ているようであった。言うまでもなく息も絶え絶えな部員たち。防具を付けているのでめちゃくちゃ暑いはずだ。千夏は脱水症状になるのではないかと内心ひやひやしていた。すると、マネージャーの女子生徒が藤堂教師のもとに水を運んできた。


「うむ」


 藤堂教師はその水をゆっくりと飲み干す。いや、お前ずっと座ってたやないかーいと千夏は心の中で突っ込んでしまった。


「……よし、皆も水を飲んでいいぞ。ただし、中村と大島は残れ」


 藤堂教師がそう言うと部員たちは急いで防具を外し、水を求めて我先にと走り出す。水筒を持っている者もいたが持っていないものは蛇口に向かって無我夢中に走ってむさぼるように水を飲んでいた。ここは砂漠か?と思えるほどの光景であった。

 そして、残れと言われた主将と大島つまり優は藤堂教師の前に正座していた。水を飲めない二人は明らかに辛そうである。


「大島、お前かかり稽古中に足を止めたな。なぜだ?」


 明らかに優は怯えていた。


「なぜかと聞いとんのじゃ!!」


 すると激高した藤堂教師は竹刀で優の体を数回ぶったたいた。千夏はあまりにびっくりして思わず立ち上がってしまう。千夏が見る限り優でも誰でも手を抜いた様子など一切なかった。


「中村!!お前の教育が悪いから一年の気がたるむんだろうが!」


 主将の中村も連帯責任とばかりに竹刀で叩かれる。千夏はその光景に絶句しながら剣道部員たちになぜ痣が多いのかという疑問が氷解した。


「「すみせんっした!!」」


 中村と優は揃って頭を下げる。もはや土下座である。人間の尊厳とは一体何であろうか。


「もうやめてください!!!」


 藤堂教師がさらに竹刀を振りかぶったところで堪らず千夏は二人の間に割って入った。竹刀を振り下ろそうとした藤堂教師の腕がぴたりと止まる。


「……竹田先生。何のつもりですか?」


「もうやめてください!竹刀で叩かなくても言葉で伝えたらいいじゃないですか?それに早く二人に水を飲ませてあげないと!脱水症状になったらどうするんですか!?」


 千夏は若干涙ぐんで訴えかけるが、藤堂教師はあきれ顔でため息をついた。


「これぐらいの稽古で脱水症状などなるわけがないでしょう。……いいですか竹田先生、知らないかもしれませんが我々剣道を志す者は皆こういう経験をして心身共に成熟していくものなのです。私も学生の頃は先輩や先生にそりゃあこっぴどくやられたものです。しかし、その先輩や先生が厳しくしてくれたからこそ今の私があるわけです。今は私もその先輩や先生に感謝しています。そういうものなのです」


 藤堂教師が言うことも一理あるかもしれない。確かに昔のスポーツ系の部活はかなり厳しいしごきがあったと言うのは千夏も聞いたことがある。しかし、それはあくまで昔の話しで時がたてば状況も変われば事情も変わってくる。少なくとも今の藤堂教師の指導が正しいとは千夏にはどうしても思えなかった。


 だからこそ千夏は頑として藤堂教師の前から引かなかった。それを見て藤堂教師は悲しそうにため息をつく。


「……そうですか。理解して頂けませんか。最初は私の指導を勉強したいと言うから見どころがあると思いましたが、私の思い違いだったようです。私の指導、練習の邪魔をすると言うなら仕方ありません。竹田先生、今後一切剣道場への立ち入りを禁じます」


 なんということか、千夏は藤堂教師により剣道部に二度と入れなくなってしまったのである。

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