第32話 父親

 徐々に意識が覚醒する。真っ暗で何も見えない。ヘッドギアを被っていると気づいてゆっくりとそれを外す。知らない部屋である。窓の外は夕刻に向けて少し日が傾きかけていた。


 千春(姿は千冬)はゆっくりと体を起こした。


「まじか、本当に現代に戻ってこれた……」


 半信半疑だっただけにびっくりである。要はゲームの中で千春と千冬が入れ替わった状態のまま、ログアウトしたら入れ替わった状態のままログアウト出来てしまったのである。千冬は千春の姿のままゲームの中に取り残されている。


 当然、千冬はこの世の終わりかのように嫌がったが、土下座して今日一日だけ、変なところ触ったら殺す、そして3万円という現金でしぶしぶ許可を得た。千春もこの年になってまさか高校生の妹の体を3万円で買うことになるとは夢にも思わなかったであろう。いや、決していやらしい意味ではなく。


 時計を見ると16時前、シンデレラのごとくタイムリミットは深夜0時までである。電車を乗り継いで行くとするとしても猶予はあまりない。千春は急いで玄関に向かった。妹の部屋を出ると何年振りかの実家にとても懐かしい気持ちになった。


 とは言ってもあまり懐かしんでもいられない。


「……こんな時間からどこか行くのか?」


 靴を履いていると突然後ろから声を掛けられた。聞き覚えがある声であった。


「朝もどこか出かけていたようだが」


 竹田総一郎。千春と千冬の父親である。千春が警察官を目指したきっかけであり、この世で最も恐れる男である。実際、警察官を辞めてから恐ろしすぎて一度も実家に帰れなかった。


「ああ、……その忘れ物しちゃって」


 千春(姿は千冬)はてんぱりすぎて千冬の口調をマネするのを忘れてしまう。よく考えれば過度に恐れる必要はない。今は千冬の姿なのだから。


「忘れ物?」


「あ、うん。朝倉に」


「朝倉だと?今からか?」


 まあ、確かに驚くだろうなと千春は思う。夕刻も差し迫ったこの時間から行くところではない。


「それは今日ではないといけないのか?」


「う、うん」


 千春(姿は千冬)はたじろぐ。まずいこのままでは父親を説得することが出来ないかもしれないと。最悪の状況である。父親がいることを想定してもっと慎重に動くべきであった。


 すると総一郎は呆れたようにため息を吐いた。


「ちょっと待っていろ」


 そう言うと自分の書斎に消えていった。どういうことか分からず待っていると直ぐに着替えた総一郎が出てきた。


「車を出してやる。早くしろ」


 何と、車を出してくれるらしい。千春(姿は千冬)はかなりびっくりした。千春と千冬は大分年が離れている。千春が知っている総一郎はこんなに優しくはない。朝倉なら走っていけぐらい言う超スパルタ教育だった。歳を食って丸くなったのか、息子と娘で対応が違うのか。何はともあれありがたい話ではある。車で行けば駅まで行かなくていいし、かなりの時短になる。


「あ、ありがとう」


「ふん」


 仏頂面は相変わらずだなと千春(姿は千冬)は思った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 近くのコンビニで総一郎を待機してもらい、千春(姿は千冬)は走って例の場所に向かっていた。場所のことは千冬に聞いていたので特に迷うことは無かった。


 定住促進住宅B棟403号室


 エレベーターを待つ時間すら惜しい千春(姿は千冬)は一気に階段を駆け上がる。


「……っ、ここか!」


 B-403 原田と書かれたプレート。千冬に聞いた通りだ。部屋には明かりがついていた。



ガッシャーン!



 中からガラスが割れるような音と怒号が聞こえてきた。千春(姿は千冬)はチャイムを押さずに扉を開けて中に飛び込んだ。幸い鍵はかかっていなかった。


「な、なんだてめえは!」


 中には魔王サトルにそっくりな子供、それと大人の男、こっちが恐らく悟の父親だろう。手には割れたビール瓶を持っていた。千春(姿は千冬)はすかさず二人の間に割って入った。


「昼間のお姉ちゃん……」


 そう呟く悟の額からは血が出ていた。犯人は父親。間違いない。


「……あんたこそ、そんなものを持ってどうするつもりだよ?」


 突然乱入してきた女子高生にかなり驚いていた父親であるが、ここが自分のテリトリーだと思い出したかのように分かりやすくキレ始めた。


「あ?てめぇには関係ねえだろうが。何勝手に人んちに入ってきてんだ。ぶっ殺されてぇのか?」 


 悟の父親はいかにもな感じのチンピラであった。痣の跡は虐待が原因であろう。


「どんな事情があったにせよ、ビール瓶はやりすぎだろ」


「お前なにもんなんだよ!人様の家の事情に入ってくるんじゃねえよ!」


 相変わらず悟の父親はキレあがっている。非常に危険な状況だった。ちらりと振り返ると悟は恐ろしいのだろう下を向いて体を震わせていた。こんな怖い思いをずっとしてきたのだろう。可哀そうに。


「悟君、走って!」


「え!?」


 千春(姿は千冬)は一瞬の隙をついて悟君の手を握ったまま玄関に走り出した。


「あ、てめえ!」


 相手が凶器を持っている状態で興奮している。まともに話が出来る状況では無い。ここは一旦離脱を千春(姿は千冬)は選択した。


 靴を履く暇などない。二人は手を握ったまま外に走り出す。悟は素直に付いて来てくれた。


 後ろから何やら悟父の叫ぶ声が聞こえてくる。どうやら追いかけてきているようだ。


走りながら千春(姿は千冬)は警察に行くべきか迷っていた。そこで、唐突に思い出す。近くに非番の現役の警察官がいることを思い出した。


「……忘れ物はあったのか?」


 いつもの仏頂面が逆に有難かった。母親に何回怒られても止めなかったタバコで煙を増産しながら総一郎はコンビニの前で待っていた。


「……どうした?」


 表情はあまり変わらなかったが、驚いているのは伝わってきた。まあ、そうだろうやっと帰ってきた娘が靴を履いておらず、しかも額から血を流した子供を連れてきたのだから。


「この子の父親が暴力を……」


「おい!てめぇふざけんなよ!」


 そこで悟の父親が追い付いてきた。さすがに割れたビール瓶は置いてきたらしい。


 悟の父親は総一郎を見て一瞬たじろぐ。それもそのはず総一郎は身長190cmの長身に柔道をずっとやっているのでがっしりとした体系で、加えてこの仏頂面である。千春も同級生から千春君のお父さん怖いねと何百回も言われて来た。


「……な、なんだてめえは?」


「私はこの子の父親ですが、あなたは?」


 少しも動揺を見せないのが流石だと千春(姿は千冬)は思った。


「てめえのガキがうちのガキを勝手に連れ去ったんだよ!どうしてくれんだ!ああ!どういう教育してんだよ。誘拐だぞこれぇ」


 悟父は総一郎の質問には答えずにでかい声で喚き散らす。悟が怯えて千春(姿は千冬)の後ろに隠れて服をぎゅっと掴んだまま震えている。


「……教育ですか。成程、では聞きますがあなたにとって教育の目的とは何ですか?」


「ああん?……目的?」


 悟父は予想外の質問だったのかぽかんと口を開けたままフリーズする。


「私は『自立』だと考えています。自らの力で選択し、頼るときには頼り、幸せに生きていくことが出来るようにです。自分のことを自分で出来るようになる、自己中心的な生き方からの脱却。これが教育の最終目的です」


「な、なにわけわからねえこと言ってんだ?」


 表情を少しも変えずに淡々と話す総一郎には妙な威圧感があった。それは悟父も感じている様であった。


「分かりませんか?あなたのようにただ感情のままに暴力に訴えたり、罵声を浴びせるという行為は一番未熟なコミュニケーション手段です。自己中心的な生き方からの脱却、という観点から見てもあなたの方がよほど『自立』出来ていないと思うのですが。ミルクが欲しいと泣いている赤ん坊と同じということです」


「な、な、ぶっころされてえのかおい!?」


 とりあえず馬鹿にされていると感じたのか悟父は激昂する。


「私には4人子供がいますが、全員を私は誇らしいと感じています。千春、千夏、千秋、一人の人間として尊敬しています。ここにいる千冬は上の兄妹と年が離れていて少し甘やかしたせいか言葉遣いが悪く少し心配していましたが、今日あなたのお子さんを連れて来てくれたことで確信しました。この子はとてもいい子に育ってくれたと。恥ずべきことなど何もありません。そして、あなたに謝罪することも一切ありません」


 千春(姿は千冬)は初めて父親の真意を聞いた。曲がったことが大嫌いで、正義の塊のように感じていた父親がこんな風に考えていたなんて夢にも思っていなかった。


 そして、総一郎が千春達を誇らしいと言った以上に自分の父親は世界で一番尊敬できる人だと思っていた。


「よーし、分かった。ぶっ殺されてぇみたいだな。ちょっと待ってろ」


 悟父は額に青筋を浮かべながらどこかに電話をし始めた。どうやら仲間を呼んでいるらしい。本当にチンピラらしい男である。


「今からダチが来るからよ、大人しく待ってろや。舐めた真似したオトシマエつけさせてやるからよ」


 ようは今から集団でリンチしますよということらしい。いくら総一郎でも多対一は厳しいだろう。千春(姿は千冬)は警察に電話しようとスマホを取り出した。


「いや、運が悪かったなおっさん。俺はこう見えても○○組のもんでよ」


 どうやらこのチンピラ有名な暴力団の一員のようである。


「○○組?」


「そうだぜえ、今更後悔してもおせえけどなあ」


 ふむ、と頷くと総一郎はどこからに電話をし始めた。


「ち、今更警察に電話したところで」


 総一郎は悟父の言葉など少しも耳を貸さず電話口の相手と淡々と話している。しばらくして総一郎はゆっくりと悟父に近づいて行った。


「な、なんだ!やんのか!?」


 警戒する悟父に無言で携帯電話を渡す総一郎。


「……は?」


「あなたに話があるようだ。代わってくれ」


 仕方なく悟父は電話に出る。


「ああ?いったいだれ……が……え」


 段々尻すぼみになっていく声。


「まさか、そのお声は……組長!?」


 そこから悟父はひたすら青ざめた顔で「はい、はい」とだけ繰り返していた。


「あ、あああ、あんた一体何者なんだよ!」


「私か?私はただの警察官だが」


 電話を切った後の悟父は、もう見るからに顔色が悪かった。総一郎を指差して非難した後、頭をかかえて「やべえよ、やべえよ」と呟いている。何がやばいのかは一切分からないがこのようなしょうもない男である。しょうもない余罪でもあるのだろう。


「け、けいさつ?ひ、ひぃいい」


 最早最初の威勢の良さは全くなく、悟をおいて走り去って行ってしまった。


「君、名前は?」


 総一郎はかがんで千冬の後ろに隠れていた悟に声を掛ける。


「原田、悟です」


「そうか、悟君か。大丈夫だ、何も心配しなくていい。安心しておじさんに任せなさい」


 そう言った総一郎の顔は力強い笑顔であった。

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