第29話 パーソナルスペース
「書けたかな? さて、書き間違えた者はいるかな?」
チラホラ手が上がる。実はおれも間違えた。
「婚姻届は大事なものだ。訂正や書き間違いは通常許されない。気を付けよう」
そうなのか。消しゴムや修正テープが日常のおれ達には信じられないことだ。
「それから提出には必要なものがある。欄の中に証人の書く場所がある。これは成人二人が記入する。両親の誰かに依頼したり友人に頼んだり、色々だ」
なんかめんどくさいな。
「誰でもいいのか?」
最前列の女子が聞いた。日本人形みたいな頭の子。
「成人なら誰でもいい、有沢くん」
「それって意味なくない~? 通りすがりの人でもいいってことじゃ~ん」
ムダに語尾が長いなこの女子。ちょっとヤンキーぽい、茶髪だし。
「そう二本田くん、本名と本籍地が書けて、印鑑が押せる人なら誰でもいい。でも、なかなかいないぞ?」
語尾長女子、変わった名前だった。
「ホンセキチって何?」
「その人の戸籍の原本が置いてある場所ということだ」
「今どき~? そんなの要らなくな~い?」
「戸籍制度は現在アジアにしか無い、レアな制度だ。煩雑で前時代的なものではあるし、I.D.と併用して後々整理されるだろう」
レアと言われると無くすのがもったいない気がするな。
「早く無くしちゃえばいいのに~な~?」
隣のペアに肩押ししながら言う。なんていうか、馴れ馴れしい。いや、隣の男子がそれで良ければいいんだけど。
「ちょっとやめて」
あれ、嫌がってる。
「佐藤くんが嫌だから、身体接触をやめてあげよう、二本田くん。他のみんなも聞いてくれたまえ。人にはパーソナルスペースがある。その距離は人それぞれで、それを踏み越えると不快に感じるのだ。恋愛とはそれを踏み越える行為でもある。ともすれば危険なものだ。気を付けよう」
図解入りで説明が入った。
それを聞いているうちに、二本田さんはみるみる涙を浮かべて、やがてしゃくりあげ始めた。
「……せっかく……話っ……弁当も……って……親しげにしないと……水くさいじゃん……!」
うわぁあ~ん!
泣いた!
盛大に泣いた!
「別に泣かなくってもよ、────俺が悪もんじゃん」
ぼそっと佐藤くんが呟く。
「大輔は悪くないよ」
二本田さんは泣きながら言ったのに「それもやめて。苗字で呼んで」と、すげなくされた。それでまた大泣きするかと思ったら、うう~~っと言って黙った。
「女って泣けば済むと思ってるよな!」
そこで空気読まない男子が一人。有沢さん?のペアの男子だ。
「それは違うよ、刈谷くん」
「男子はいっつもそう!」
うさ衛門先生と女子の発言がかぶった。ええと、鬼ノ目さんだ。怒りっぽいのかな。
「すぐ泣くすぐ泣くって、泣きたくて泣いてる訳じゃないわ!」
「うるせえなあ。ハイハイ、分かりましたよ」
「分かってない!」
「まあ鬼ノ目さん落ち着いて。そう、女子は男子より涙が出やすい。泣くつもりがなくても止められない人も多いようだ。感情表現において女子は男子より豊かな傾向がある。しかしあくまで傾向、絶対ではない。女子、男子の大きなくくりで話すことはできない」
すぐ泣くって、朝湖見てると思うけど、小さいからだと思ってた。
「それから二本田くん、親しさの表現も人それぞれで、批判されるべきことではない。二本田くんのやり方で良い人もいるし、ダメな人もいるだけだ。ダメな人にするのでなければ一向に構わないんじゃ」
「でも~そんなのわかんないじゃん~」
まだ鼻声で、元気ない。
「それは、聞けばいいのだ。私は親しくなりたい人にはこうしたいけれど、良いですか、と」
話すということは、大事なことだ。
相手の頭の中は見えないから、おれ達は言葉でひとつひとつ確かめる。
「好意を持っていることも、親しくなりたいことも、それを断りたいことも、すべて口にしなければ相手には分からない。これは、今日覚えて帰って欲しい」
覚えた。できるとは、言えないけど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます