幕間-4 too Fast,

「メンタル弱すぎだろ、俺」

 彼女の目が離れたことを確認するが早いか、縁石に座り込んでしまう。歩道の無い湾曲した道で、背後には壁。車が来ればそこそこ危険だろうが、注意すれば問題ない。


 記憶喪失患者の鬱病や自殺が多いのも頷ける。


「自分の記憶はないってのに、こんな知識だけはあるんだもんな……」

 思わず苦笑いが浮かんだ。まったく、こんな気の滅入る知識どこで身につけたのだろうか。



 具合が落ち着くのを待って、再び立ち上がった。俺は財布を持っていないし、これ以上彼女に時間を使わせてしまうのは気が引ける。気まずさを理由に逃げ出そうとする自分に嫌気がさすが、今は1人になりたかった。


「あ、逃げようとしてる!」

「げっ」

 最悪のタイミングだ。彼女が思ったより早く戻ってきた。


「大人しくしててくださいよ。本当に具合悪そうですし。何か予定でもあるんですか?」

「いや……特に予定があるわけじゃないですけど」

「ならよし。お金はいいんでとりあえずこれ飲んでください」


 逃げようとしているところを見つかったせいで、余計に気まずくなってしまった。しかし彼女はケロッとした様子で、初対面にしてはやや近い距離感で俺に接する。


「えっと、すいません」

 もうどうにでもなれと、キャップを外して押し付けられたペットボトルの水に口をつける。



 彼女は俺の隣に座り込み、居座る構えだ。


「自己紹介がまだだったね。私は潮崎しおざき未来みらい。華の18歳ですよ」

 敬語とタメ口が混ざったおかしな口調。悪戯っぽくウィンクして、キミは?と促す。

 俺は——と一瞬だけ躊躇って、

「俺は夜桜潤です。17歳なんで、敬語はいりませんよ」

 これだけは記憶にあった、実感のない”情報”を口にする。


 そっか、と潮崎が相槌を打って、しばらくの間無言が続いた。初対面のはずなのに不思議と気まずさは感じない。1人じゃないというだけで、追い詰められていた心が少しだけ軽くなるような気がする。


「どうして……」

 ずっと感じていた疑問が口をつく。

「どうして、潮崎さんは初対面の俺にこんな良くしてくれるんですか?人通りの少ない道で吐いてる男なんて見掛けてもここまでしませんよ、普通」

 自分だったら、たとえ声をかけても大丈夫と言われた時点で立ち去るか、そうでなくとも隣に座り込みまではしなかっただろう。


「うーん、私も、キミが三十路みそじのおっさんだったらちょっと避けてたかなー」

 と前置きして、

「私、実は今朝死にかけたんだよ」

 と、とんでもないことをさらっと言う。

「ちょっと悩みがあってね、周りよく見ずに歩いてたら、運悪くトラックが突っ込んできて。その時、誰かが助けてくれたんだ。それも結構無茶したみたいで。私も気絶して病院に運ばれてたから、人づてに聞いた話でしかないんだけど、それでかな。なんか自分も、誰かを助けたいって、思ってたのかも」

 ——ま、それと比べちゃ大したことできてないんだけどねー。

 自分に問いかけるように話してから、潮崎は恥ずかしくなったのか首を横に振る仕草をしながらそう締めくくった。


「なんて言うか……すごいですね。潮崎さんを助けたその人も、それで自分を変えられる潮崎さんも」

 俺だったら、彼女らと同じ行動をとれただろうか。いや、きっとできなかっただろう。俺は目の前でかれそうになる赤の他人を前にして、ただ硬直するだけだっただろう。彼女のように助けられても、その行動を自分も見習おうと、無意識のうちに思うことなどできなかっただろう。

 それは、”前の俺”もきっと同じだ。俺はどこまで行っても、俺でしかあり得ないのだから。


 潮崎を助けた人のようなまっすぐな心を、俺は持っていない。潮崎のような澄んだ心を、俺は持っていない。自分には無いものを持つ彼女たちが、俺には眩しく感じられて、目を閉じた。



 ——目を、閉じてしまったのだ。




 その夜桜潤という肉体が目を開くことは、もう二度と無かった。

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