賢者の肥溜め
過去は愚者、今は賢者。世界はいつだってそうあり続けてきた。根性論を振りかざせばそれは効率的でないと拒絶され、男女がどうと言えば差別的だと批判され、見た目が華やかすぎると言えば、典型的な老害だと罵られる。確かによく考えてみたら、これらの古い価値観はどこが正しいのかいまいち説明ができない。だが、だからと言って過去に依存すること全てが愚者の象徴であると思わないでほしい。
私は息を吐いた。そこに苦味が混じる煙が乗る。慣れてしまえばその苦味は心地良いものへと変わる。だが、それはつまり慣れていなければ苦痛でしかないということを意味する。ほら、見てみろ。若人が煙の流れ弾に顔を歪めている。
ああ、そうだな。路上喫煙はよくない。どこか喫煙室のある場所に移動しなくては。もったないが、火をつけたばかりのこいつは捨てなくてはならない。辺りをキョロキョロと見回し、灰皿を探すが見つからない。それもそうだ。ここは路上喫煙を禁止しているのだから、わざわざ置く必要はない。私はタバコを地面に投げ、真新しい火を踏みつけた。まるで先刻までの時代に反する行動を揉み消すかのように。
胸ポケットのメビウスを守るようにしながら歩く。普段、外で嗜むことがないので喫煙室のある場所がわからない。スマホで調べろと言うかもしれないが、使い方がわからないのでおそらく余計に時間がかかる。時代の波に乗ることのできなかった愚者は自らの勘という煙に乗るしかないのだ。
しばらく歩いた。その間は別に同じ場所に何度も戻ってきている訳ではないのに、脱出不能な輪っかの中にいるような気がして怖かった。
ふるいにかけられているような気分で喫煙室のドアを開けた。賢者か愚者か。濃厚な煙臭が私の鼻に殺到した。間違いない、ここは愚者の集会だ。
胸ポケットの箱からタバコを一本取り出し、口元に持ってきて火をつけた。息を吸うだけでおいしさが脳内に充満する。それだけで私はこの世の賢者になったような気分だった。本当にちょろい男だと思う。たった一本の棒でここまで自分を肯定できてしまうのだから。
ああ、ガラス一枚隔てた向こう側で愚者が一心不乱に闊歩している。この世界では私は紛れもなく賢者だった。しかしそんな偽りの世界にいつまでも居座る訳にはいかない。
「やめておけ。戻っても良いことないぞ」
この世界の誰かが言った。
「わかっているさ。けれど私は逃げないよ。ここへはその勇気を得るために来たんだ」
私はドアノブに手をかけた。ドアは開かなかった。下げても上げても、押しても引いても、ドアは開くことを拒否した。さっきまで愚者だった者たちは軽蔑の眼で私を見ている。
ここはかつての愚物を処理するために賢者が生み出した肥溜めだった。
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