希望の星
男が吹かした紫煙の臭いは今の世界では意味をなさない。15年前に突如現れた地底人と我々地上人との間に起こった戦争によって地上には兵器開発によって生み出された公害物質が跋扈し、それに準ずるように町は閑散としていた。外でタバコを吸うことも立派な規則違反となった。もっともその規則は周囲のためではなくタバコを吸う者のためであるのだが。規則違反の高揚を充分に楽しんだ男はタバコを地面に落として踏みつけた。
男は自分の仕事部屋に戻った。白いカーテンは窓が切り取った灰色をわざわざ隠している。椅子に座った。柔らかすぎて逆に腰が痛くなってくる。地上連合国軍長官という自身の立場にかすかな苛立ちを覚えてしまう。デスクを指でコンコンと叩いているとそこにノックの音が混じった。。
「失礼します。アベです」
「ああ、入ってくれ」
アベと名乗った男が恭しい態度で入ってきた。
「長官、お時間です」
「ああ、わかっている。準備はできているね?」
「はい。こちらに」
男はアベの後をゆっくりと歩いた。
地底人と地上人、2種属の対話。地底人側から突如もたらされたそれは15年前とは一転して、長い年月に及ぶ戦争を閉幕させる方向へと進もうとするものだった。
男はアベと共に地下にある輸送機に乗った。地上での外出は禁止されているため、地上に生活基盤がある彼らでも移動は地下を経由することになる。しかし彼らが向かう場所はここよりももっと下にあるので、いつものように地上に上がる時間をロスする、なんてことはない。地底人から送られてきた地図に沿って、目的地のエレベーターへと向かう。それは地底人たちが地上に火花と血潮の坩堝を運び込むために常用しているものだった。
本来、敵国同士の対話となると中立国とか戦争に関係のない国で行うべきなのだろうが、いかんせん地上と地底の争いである。いや確かに2つの世界の境界的領域は存在するのだが、そこに人間が入り込むほどの隙間はなかった。
エレベーターに到着すると迎えの地底人がいた。地上人との見た目の違いはほとんどない。彼は両腕をクロスさせた後、両手を掲げた。彼らの独特の挨拶。私もそれに倣う。
「ホロー。ントソホトトー。ドオゾコトロフ」
地底人の彼が口を開いた。しかし男には彼の言うことがよくわからない。
「『ハロー。私はトトー。どうぞこちらへ』」
地底語を話せるアベが彼の言葉を地上語に訳した。
「ハロー。この度は招待してくれてありがとう。地底世界を楽しみにしていたよ」
と、アベ越しに伝える。
「コノモソコンソトコドソオ」
地底人の彼はガスマスクを差し出した。
「『このマスクをしてください』」
「わかりました」
男は素直にそれを受け取り、皺まみれの顔面に装着した。3人はエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが止まった。ドアが開くとそこには未知の世界……ではなかった。何かを必死に掴もうと天に伸び上がるビル群。そしてその最中を貧相たる歩幅で支配領域を誇示する人々。それはいつか以来の懐かしい景色。違っているのは人々の顔が不気味なマスクに、空が暗闇に覆われていることだけ。
「ンロンロノソコオホソンソオノヨットヨゴロト。ドコロモンノモソコンソトオロ」
「『我々の世界は戦争によって汚れた。だから皆マスクをしている』」
「地上も地底も人々が危険に晒されていることに変わりはないのですね。私たちは早急にこの争いを終わらせなければならないのですね」
男とアベは用意されていた車に乗った。これもまた地上と同じようなデザインだった。
着いたのは地上で言う大使館のような場所だった。中へ入り、男とアベは応接間へと案内される。
「コトロドソ」
地底人の彼が応接間のドアを静かに開けた。中には当然地底人がいる。しかし彼は庶民や案内してくれた地底人よりも体格ががっしりしていて、如何にもな風貌だった。
「失礼いたします。私は地上連合国軍長官です。この度はこの地底世界へのお招きして頂きありがとうございます」
男は先程地底人の彼にやったのと同じ動きをした。アベが地上でぶつけられる言葉を地底人用の軌道に変えて投げた。
「コトロコソオオオドコトコオオオドソ。ントソホグドネ。ヨロシク」
「『こちらこそお会いできて光栄です。私はグドネ。ヨロシク』」
「これは驚いた! 地上の言葉を喋れるのですか」
「ゾッコオモドドソ。ノゴットオロモノンソモットコドソオ」
「ンコットオモソ」
2人のやり取りに鋏を入れるガイドはない。男にできるのは2人の間で編まれる意味不明な音の羅列にさも関心があるかのように耳を傾けることだけだ。
「オコココドソオ」
「『お掛けください』」
男は背の低いテーブルの前に案内された。
「失礼いたします」
グドネは男の向かい、アベは隣りに座った。
「それにしても地底の物というのは地上の物ととても似ているのですね。移動の時にびっくりしてしまいました」
できるだけ明るい口調で話す。しかしそれもアベによってそれ以上意味を持たない、単なる音の羅列へと変わる。
「ントソモオモットオモソト。ドオソトコンノノノトオロノコト」
「『私も思っていました。どうしてこんなに似ているのかと』」
「ですが、使用している物が似ていることは共存という点に於いて大きな利点です。『違う』ことの対立に苦しみ続けている我々にとって、それは唯一の『希望』なのです」
「『キボウ』オオ、トソコノソロホコョオゾンノトモノモットモオオコノヨオソノホトトドソ。ソコソ……」
「『ええ、確かにそれは共存のための最も大きな要素の1つです。しかし』」
「ンロンロノコョオゾンノオソホノオ」
「『我々に共存の意思はない』」
男は驚愕した。アベを介したグドネの言葉に。
「これはどういうことですか!」
男はグドネを睨んだ。しかし男の言葉も瞳に灯した怒りもグドネに届くことはない。アベを介さない限り。
「僕の言葉を訳してください! アベさん!」
異なる物同士の交わりは触媒を必要とする。しかし今、その触媒は触媒たる理由を失い、ただ漆黒のカーテンのような瞳で男を見つめていた。
「ソノ」
瞬間、腹を抉った何かがあった。それに気づいた時、男の足に地球の核との綱引きに勝つ力は既になかった。男が最後に見たのはアベの爽やかな笑顔だった。
「ホントオノヨコットノドソョオコ……(本当に良かったのでしょうか……)」
グドネは貧相な死体を静かに見た。アベは彼の肩に手を置き、言った。
「オオ、コロドヨコットノドソョオコ。ノンゴンホコョオゾントオオコトボントトノコンゴオンオソトコ、ソゴンンソボロトロオトソモソ。コロロホオノトゴトノトコドソ。(ええ、これでよかったのです。人間は共存という言葉を盾に考えを押し付け、資源を搾り取ろうとします。彼らはあなた方の敵です)」
「ソオドソョオト……。オオ、ソオドソノ。ンロンロホコノホソホモモロノコトホノロノオ。トトオノトモノトモ、ソソトオノトゴトエベイルノトモ(そうでしょうか……。いえ、そうですね。我々はこの世界を守らなくてはなくてはならない。地底の民のため、そしてあなた方エベイル星人のため)」
「ソノトオロドソ。ントソトトエベイルホオノトゴトゴモノントコロトコノドソコオゴオボッソトントボノコロボオコトオコノオノドス。オノトゴトンヨヨオトノ『キボウ』ノノドソ。(その通りです。私たちエベイル星人はあなた方が物を作る時に出す公害物質を食べなければ生きていけない。あなた方は唯一の『キボウ』なのです)」
アベはグドネに背を向け、足音1つ立てず来た道を辿っていった。
「さて、どのくらい傷ついていれば怪しまれないでしょうか」
「本当に地底人に共存の意思はないのだな?」
男は医務室のベットで横になっているアベを見た。アベは苦しそうに頷いた。
「こんなことは言うべきではないのだろうが……。彼を送って正解だったということだな」
「そう、ですね。この戦争は一体いつまで続くのでしょうか」
「無論勝つまでだ。私たちの身勝手な事情で偽りの希望を抱かせてしまった彼のためにも、本当の希望を抱ける星を取り戻さなければならない」
男は医務室を後にした。残されたアベは漆黒のカーテンのような瞳で曇った空を見上げた。爽やかな笑顔で。
「安心してください。ここはずっと希望の星ですよ」
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