見知らぬ帰郷
「知らない」ってなんでこんなに怖いのかなと考える。これから起こることの予測がつかない、あるいはさまざまな予測の中から可能性が最も高いものを選び出すことができない。そういう状態が与える恐怖は僕の頭に静かな苛立ちを生み出す。せめてもうちょっと情報があればと思ったけれど、あるならあるで怖い時もある。そんでまたイライラ。結局、恐怖もイライラも僕の頭の中からは消えることはないだなあ。
というわけで、僕は今見知らぬ場所で見知らぬ人の中に座っている。だだっ広い体育館、規則正しく並ぶパイプ椅子に収められた老若男女。普段は人の営みで掻き消される椅子の軋みも、ここでは一個の核爆弾に等しい。
そんな未知が満ち満ちた道の先に待つものもまた未知。
イライラの物質化。その文言が新聞の一面を彩った時、僕は初めて意味のない、言葉だけの言葉というものを知った気がする。紙面に印刷された記号群が示す情報はなかなか突飛で、だいぶ時間が経った今でも具体性のある想像ができないでいる。
自らの理解力と想像力へのイライラを指を介して椅子に叩きつけていると、突然前の人が振り返り「これ、いつになったら終わるんでしょうか」と話しかけてきた。
「さ、さあ。僕にも分からないです。なにせこの列の先で何をやるかもイマイチ把握しきれていないので」
「そうですよね。イライラの物質化なんて言われても想像のしようがありません。そもそもイライラをはじめとする感情は人間の持つ特定の環境への反応に名前をつけた抽象的なものです。それを物質という具体的なものに変換するというのはなかなかに突飛。確かに今私たちの前にある科学技術は具象を抽象に変換されるために生まれた数字という抽象によって形成されたものです。だとすれば科学という具象を以って感情という抽象を具体的なものに変換するのも可能と言えるかもしれません。しかしながら……」
なんなんだこの人。いきなり話しかけてきて、いきなり長話を始めるなんて。おかげでこっちは全方位から怪訝の視線を刺され、恥ずかしいったらありゃしない。早く終わってくれという切なる願いと裏腹に、彼の話は僕らの順番が回ってくる寸前まで続いたのだった。
「おっと順番ですね。それでは御機嫌よう!」
あんたのおかげで最高に不機嫌だよ、という思いを隠しつつ、曖昧な笑顔で彼を見送った。さて僕も順番だ。
医療用カーテンを開けると、1台のベッドと1人の看護師さんが座っていた。
「こんにちは。早速ですがこちらのベットに横になって頂けますか?」
「はい」
言われるまま横になる。ヘッドギアをはめるためか、枕は高め。
「それでは改めて説明をさせて頂きます。イライラの物質化というのは脳に溜まったストレスを取り出すということです。頭上にあるヘッドギアから流れる特殊な電流によってストレスを脳から切り離すことで頭をリフレッシュさせることができるんです」
さっきの長話よりは簡潔でわかりやすいが、それでもやっぱり想像しづらい。
「それでは始めましょう。まずこちらのヘッドギアを被って下さい」
見上げると、床屋にあるパーマをかける機械くらいのヘッドギアが吊るされている。僕は側面についた取っ手を引っ張って頭にはめた。
「それでは始めていきます。電流といってもとても微弱なので痛くはありません。寝てもらっても構いませんよ」
頭の奥に電流が流れてくる。でもそれはとても気持ちよくて、まるで関節痛を患った時にやった電気マッサージのようで、いつの間にか意識が流されていた。
「おはようございます。終わりましたよ」
目を覚ました。今までにないくらい気持ちのいい目覚めに驚きつつ、意識を完全に取り戻す。
「こちらが物質化したイライラです」
「おお、まるで大きな金平糖のようですね」
だが、球体の表面に小さなトゲトゲという可愛らしい形状とは打って変わって、色はこれ以上ないくらいどす黒い。
「かなりイライラが溜まっていましたね。こんなに黒いのは初めて見ました。メールにアンケートを送りますので明日のこの時間帯にご記入下さい」
「はい。ありがとうございました」
カーテンを開き、体育館の出口へと向かう。その途中、あの話の長い人とは会わなかった。少し残念がっている自分に驚いたりもした。これもイライラの物質化の効果だろうか。
体育館を出ると、初夏の陽射しが肌を撫でる。それだけで、たとえ何も知らなくてもいいんじゃないかなと思えた。
あれから30年が経った。僕は50歳近くなっていたけど白髪が生え始まったり、体の大きな異常とかもなくて、あの技術の素晴らしさを改めて感じている。
金平糖みたいな物質は構成する分子の結びつきが強く、状態変化させることができないらしい。そんなわけで10年おきくらいに宇宙に飛ばされている。役に立たないものを地球に留めておいても意味はない。前に宇宙生物がそれを食べちゃうと懸念された時もあったけど、この30年間宇宙生物など人間以外確認できていないので多分大丈夫だろう。
僕は30年前に出会ったあの人を思い出した。彼の話は今でも長いのだろうか。僕は前よりずっときれいになった空に目を細めた。
「イライラ」そう名付けられた感情は遥かな旅をようやく終えて、新たな体を纏いつつ、まだ見ぬ郷里へ向かうのだった。
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