世界は幸せで満ちていた。人々はあらゆる痛みや恐怖を食べ、幸せを吐き出す機械仕掛けの微生物を身体に宿し、何不自由なく暮らしていた。ただ一点を除いて。

「天気を変えるのを禁止する国際法が憎いね」

 磁力で進む座席を守るように作られたガラストンネルを雨が叩く。そのあやふやなリズムに合わせるでもなく彼は裏拳を腰に叩きつけた。

 痛みや恐怖から脱した人々が未だに解放されない一点。それは「腰痛」だった。

 彼は人生の20年以上を腰痛の研究に費す研究者であり、腰痛専門の医者だ。だか今や世界人口の約6割が腰痛関係者でそのうち7割以上が腰痛研究者兼医者であるため、さほど珍しい人種ではない。

「湿布貼ったんだけどなあ」

 ほとんどの物が機械化した中で腰痛の治療法は見つからず、古来から伝わる湿布やマッサージなどの方法で痛みを一時的に和らげることしかできなかった。

 彼は腰をさすりながら椅子に座った。背もたれの腰が当たる部分から微弱な電気が流れて、痛みが少し引いていく。

 眼球に映し出された患者たちのリアルタイムで変動するデータを流し見ていく。体内の微生物は正常に作動し、神経を歩いている。時々現れる痛みや恐怖を瞬時に感知すると、それらが脳に到達する前に食べて、代わりに幸せを吐き出す。

「あれ?」

 微生物が一斉に見慣れない行動を始めた。突然腰の神経に集まり出したのだ。集合が完了すると、一斉に何かを放出し始めた。それはまるで生き物の排泄のような動作だった。

 大急ぎで解析をしてみると、それは先程食べた痛みや恐怖と同じものであるという結果が出た。

「これが腰痛の原因だというのか?」

 なぜ機械の微生物が本物の生き物のように排泄をするのか。なぜ入っている身体は違うのに、腰に集合する時間は同じなのか。今まで、このことを発見する者がなぜいなかったのか。

 さまざまな疑問が頭の中を駆け巡った。彼の身体は経験したことのない興奮に襲われ、やがて疲れ果てて、だらんと溶けるように背もたれに身を任せた。

 そしてふわりと浮かんだ、最後の疑問。

 果たして人はこの事実を受け入れることができるだろうか。

 この機械微生物は300年以上も前から人の生活と身体の要となってきた。その要こそが人に残された唯一の痛みの原因だと受け入れられるだろうか。

 瞳に映し出されたデータをファイルに閉じ込め、コンピュータの奥深くへと埋めた。

 物好きな誰かがいつか見つけ出すのを信じて。


 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る