二人の距離 -2
島の空には、いつの間にか白い月が昇っていた。
なんとなく夜空を見たい気分になって外に出た。
これが故郷の空なのかとぼんやり考えて、それでもこみあげてくる感情のないことに首を振る。記憶があったところで、月を眺めて思うところなど何もないのかもしれないし、いちいち郷愁を求めなくても良いだろう。
高い建物もなく、大きな船も係留していない小さなレイラ島は、視界を邪魔するものが少ない。そのせいか、なんだか空が広い気がした。
星空を眺めてくるりとその場で一回転すると、魔女たちの家の裏側に大きな真っ黒い影が迫っているのに気がついた。どうやら家の裏は小さな森になっていて、鬱蒼と生い茂る木々が濃い影になっているようだ。緑がこんもりとしている様は、小山があるようにも見える。森の闇に興味を惹かれて、オリバーは建物の裏手へと向かった。
静かな森の入り口で、白い人影が躍っている。
白いのは身につけている衣服で、家から漏れる明かりに照らされて、闇にぼんやりと浮かぶようだった。
決まった形のある舞踏なのかはわからない。けれど目いっぱいに手足を伸ばして、鳥が羽ばたくような自由さを感じさせた。
淡い金の髪が夜風に揺れて、儚く消えてしまいそうな細い身。
「エルダ」
そっと声をかけると、踊るのをやめた影はゆっくりと振り向いた。オリバーの姿を認めると一瞬硬直して、それから叫んだ。
「え、わ、ちょっと!駄目駄目、こっちこないで!」
「え?」
「何にも着てないから!」
自分の両腕を抱いて、エルダは後ずさった。その足元には外套が脱ぎ捨ててあるけれど、それ以外の衣服は見当たらない。
「え、あれ、そうなの?ごめん!」
慌てて体ごと後ろを向く。
エルダの着ていた白い衣服は、ただの下着だったことに初めて気が付いた。下着にしては、あまりに重装備だったのだ。胸元を飾る、何重にも分厚く重なった手編みのひだ飾りも、大きく膨らんだ下半身の布地の重なりも、庶民だったら衣服にするにも贅沢な布地と装飾の量だった。お姫さまって凄いんだなあとのんきな感想が頭をかすめつつ、むき出しだった腕と素足を思い出す。
(確かに、人前で脱いだり着替えたりは駄目です)
もう一度心の中で、見てしまってごめんなさいと謝った。
「アデイルさんが。洗うものがあるから、もし服を洗濯するならついでにどうぞって言ってくれて」
恐らく、葡萄酒で汚れた靴下と服を洗うのだろう。ちゃんと落ちればいいけれど。
「それで渡したは良いんだけど、フランチェスカはフランチェスカで、洗濯をしていたのね。そうしたら、替えの服が無くなっちゃって」
「ああ、なんか色々うまくいかなかったんだ」
「フランチェスカも、怪我してるんだから洗濯なんてしなくていいのに。とりあえず急いで洗濯場に来て、アデイルさんを止めようとしたけど遅かったの」
どうやら洗濯場が、家の裏手に位置しているというわけらしい。それでこんなところで、下着姿でいたということだろうか。
「替えの服、持ってきた荷物以外に何か借りられないの?」
「……エイミーの服しかないって言われた」
どこか拗ねたような、エルダの口ぶり。
「風邪ひくより、マシじゃない?」
オリバーは恐る恐る口にした。不用意なことを言って、またエルダを傷つけてしまいたくない。
「エイミーの服を着るより、風邪ひいたほうがマシ」
頑迷なエルダに、オリバーの心が重くなる。けれど実の親子ながらオリバーとアデイルだって戸惑い、悩むのだ。エルダだって多くのことに心を痛めているのだろう。
「それで下着のまま、こんなところうろついてるの?」
「もう部屋に戻る。明日の朝、服が乾くまで絶対に部屋から出ないもん」
「最初から真っすぐ、部屋に戻ればよかったのに」
慌てて下着姿のまま洗濯場に駆けつけたまでは仕方なかったとして、こんな夜空の下に出てこなくたってよかっただろうに。目のやり場に困るオリバーとしては、そう思わずにはいられなかった。
「お見苦しいものをお見せして、ごめんなさいね」
背後から、悪びれているのかよくわからない声が届く。
「いいよ、こっち見たって」
振り向くと、エルダは肩から外套を羽織っていた。外套はきちんと前も留めてあるけれど、それでも足元は靴下も履かず素足のままだから、なるべく視線を下に向けないようにする。
「ちょっとね、外の風に当たりたかったの」
「せめて服を着てからにしなよ」
「わかってるよ。はしたないし、非常識だし。でもね、なんだか、解放されたかったの」
呪いのまとわりついたエルダの両腕。小さな手が、外套の裾をぎゅっと握りしめた。
「エイミーの呪い、凄かった」
夜の闇の中に、かすれたように響くエルダの声。
「私の腕どころじゃない。体中、あんなにがんじがらめになって。それを見たら、私まで窮屈で、縛り上げられてるみたいな気分になって」
「うん」
「オリバーの言う通り、あの子はあの子で可哀想なんだと思うの。だけど私だって苦しい。お母様だってお腹の子だって可哀想。エイミーに同情したり、心を寄せたりなんかしたくない。そんなことしたら」
顔をくしゃくしゃにして、エルダは絞り出すように言葉にした。
「余計に苦しいんだもの」
自分だけでも辛いのに、エイミーのことまで背負えない。
この細い体でエルダが抱えられるものは、もういっぱいいっぱいだ。
「ごめんね。何にも知らないのに、わかったようなことを言って」
君の抱える多くの困難を、一緒に分かち合うこともできなくて。
「私も怒鳴っちゃった。ごめんなさい」
叫ばずにはいられなかったのだろう。どうしようもなく追いつめられて。
「さっき、少し眠ったのだけど。嫌な夢を見た。私もエイミーみたいに、体中を呪いで縛られている夢。もし私も、腕だけで済まなくなったらって怖くなった」
それは体の自由を奪われることであると同時に、エルダが確実に多くの繋がりから切り離されることを意味するだろう。ただの悪夢と忘れようにも、エルダにとっては身に迫る恐怖であるに違いない。
「なにもかも重たくって、邪魔くさくって。身軽になって外に出たら、少し楽になる気がしたの」
「それで踊ってたの?」
「本当に体が軽くなった気分だったの。ううん、実際服を脱いでいたから軽かったんでしょうけど。そうしたら体が自然に」
恥ずかしい、とエルダは顔を覆った。
「体を動かすのはもやもやした気分を晴らすのにうってつけだって、レナード先生も言ってたから。きっと踊りでも何でも、エルダは体を動かしたい気分だったんだよ」
「オリバーも、踊るの得意だったよね」
初めて会ったときに、手を伸べたことを思い出した。二人で踊ることは叶わなかったけれど。
「どんな踊りができるの?見せて」
「んー、いつもライエの相手だから一人で踊るようなのはあんまり知らないんだよなあ。なくはないけど」
オリバーはつま先立ちになるように、両足の踵を持ち上げた。軽くけり出すように右足を前へ、左足を後ろへ、撥ねるように足を前後に入れ替えて。柔らかい土の地面の上では擦るような音しかしないけれど、硬い床なら小気味のいい音を立てたことだろう。足捌きを目で追えたのは最初だけで、地面を叩く足運びは速度と激しさを増していく。飛んで跳ねて、オリバーの足は軽快に躍った。
「え、凄い凄い!そんなの初めて見た」
興奮した様子で、エルダは拍手を送る。
「お城の舞踏会とかで踊るようなやつじゃないからね。どっかの国の伝統的な踊りの一種らしくてさ、お祭りに来てた旅芸人一座の人に教えられたの」
「わざわざ習ったの?」
「いやー、あれには困ったなあ」
エルダが首を傾げるので、オリバーは続きを聞かせた。
「そこの踊り子の男の人がね、お祭りの時にライエのことを誘ったんだよ。いつも通りライエは俺と踊るって言って、断ったんだけどさ。その人、ライエに本気で一目惚れしたとかで求婚してきて、引かなくって」
「ああ、ライエは引く手数多だものね」
「それでその人の言うことが、『踊りで俺を負かせてみろ』だよ。別に俺がライエの相手なのは、そういう意味じゃないのに。参ったよ」
エルダがくすくすと笑う。
「ライエも周りの芸人さんたちも、面白がっちゃってさ。それで俺にもこの踊りを覚えろって。死ぬ気で習わされたよ」
呆れながら言うオリバーをよそ目に、エルダは楽しそうだった。
「でも、良いものが身についたじゃない」
「うん。なんだかんだで楽しかったし、まあ良かったかな」
「今のやつ、楽しいし凄く格好いいよ」
ようやく明るい顔を見せたエルダに、オリバーは思わず提案した。
「エルダも踊ってみる?」
「え?」
「これね、基本的に上半身は使わない踊りなんだよ。誰かと一緒に踊る時も、手を取り合うことはあんまりしないんだ」
エルダは胸元で手を彷徨わせて、それから思い切ったように口にした。
「踊って、みたい」
そっと踏み出した素足が、しっかりと地面を踏みしめている。
「じゃあやってみよう」
月の下、二人だけの舞踏会。
いや、舞踏会というにはあまりに品も優雅さもないけれど。足をもつれさせながら、息を弾ませながら共に踊るのは愉快なものだった。
エルダは社交の場に出たことがないけれど、舞踏の訓練は受けているためか飲み込みが早かった。踊っていると楽しくて、ついお互い手を伸ばしそうになる。エルダの腕の文字がその肌をそろりと這って、そっと二人、手を引っ込めるのだった。
素足を見てしまうのは悪いなと思いながら、オリバーはエルダの足運びを確認する。
(あれ)
外套の裾――正確にはその下の、白い下着の裾から――何かが覗いているのが見えた。
「エルダ、何かずり落ちてきてる」
言いながら、見えたら恥ずかしいようなものだったりしたらどうしよう、と目を逸らす。
「え?」
エルダは足を止めた。
「あー……」
ちらりとエルダの方をうかがい見ると、エルダは裾から覗いていたらしき物を足から外した。その形に見覚えがあって、オリバーはエルダの方に向き直る。
「短剣?」
エルダの手には、小さな短剣が乗っていた。革帯の取り付けられた鞘に収まったそれを、衣服の下に仕込み持っていたらしい。
「護身用?そんなの持ってたんだ」
「そうなの。使ったことはないけれど」
エルダがそれを抜くよりも早く、レナードが剣を構えるだろう。フランチェスカだって、果敢に刃を振るった。
(俺も、そうならなきゃだけど)
「オリバー」
「何?」
エルダが短剣を強く握りしめていた。肩が小さく震えているような気がして、オリバーはそっとエルダの表情をうかがう。
「私はこれを、使いたくないの。もし、私がこの剣を抜くようなことがあれば」
その武器は小さいけれど確かに剣で、刀身が短い分すぐさま鞘から引き抜けそうだった。
「お願いだから、止めて」
怯えるような顔をしたエルダ。オリバーは決意を新たに胸に刻む。
「うん。エルダが剣を抜いて戦ったりしなくて済むように、もし何か危険が迫っても、俺が守るから」
守ると口にするのは、やっぱり勇気がいった。だけどエルダだって戦っている。武器は抜いていないけど、ずっとずっと戦っているのだ。
だから今度こそ、自分も戦うと。
エルダを守ると、オリバーは誓うのだった。
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