二人の距離
二人の距離 -1
エルダを怒らせてしまった。詳しく事情も知らず、分かったようなことを言った。
(でも、あんなエルダ見てるの嫌だったし)
誰かを悪し様に罵る姿なんて、そんな胸の痛む光景。それが他の誰でもない、エルダの振舞いだったことが衝撃だった。
(エルダはあんな子じゃ……)
脳裏にひらめくエルダの姿。運命に翻弄される少女の、その表情、心のうち。
「そんなの、わからない」
オリバーは思わず口に出していた。
エルダの心はいつも揺れているようだった。波に弄ばれる、今にも折れて砕けそうな木屑のように。
前を向いて笑おうとしていても、その心は向けられた悪意や自身を縛る重い鎖に傷つけられ、うつむいてしまう。
乗り越えようとしたって、エルダを取り巻く状況と襲い来る困難は、あまりにも容赦がない。
そんな荒波の中で戦う人の叫びを、わかってあげられなかった。
「ひどいことしちゃった」
オリバーは立ち上がった。エルダを追うこともできず、休むための部屋に案内してもらう気にもなれず一人居残った食堂で、椅子ががたりと音を立てる。
血を分けた親子の、姉妹の、計り知れない葛藤があるのだろう。そこにどれだけ王族としての事情が絡むかは知れないし、きっとオリバーは、いや他人では、結局すべての苦しみを理解することなんて、できないのだろうけれど。
それでも無理解がエルダの心を傷つけたのなら、それだけは謝りたい。
今でも怒りと憎しみにエルダが心を囚われていることは良いことだとは思えないけれど、今度はちゃんと彼女の心に寄り添って、一緒に考えてあげたかった。
「あっ」
「わ」
部屋を飛び出そうとして、人影にぶつかってしまう。
静かに近づいてきていたその人を確認して、オリバーは思わず一歩引いた。
「オリバー」
アデイルに名を呼ばれて、どう返事をしていいか言葉に詰まる。
「ごめんなさい、熱くなかった?」
「え?」
アデイルの手の中に、綺麗な模様の書かれた茶碗があった。ぶつかった拍子に中身が飛びだしたのか、模様の上に赤黒い汚れが垂れている。
「えっと。俺は大丈夫、だけど」
言葉使いとか、呼び方とかをどうするべきなのか、オリバーの中でいまだ定まらない。度々つかえながらの会話は、アデイルにどう響くのだろうか。
「良かった」
アデイルがどう思っているかはわからないが、彼女の方では特別に身構えた様子もなく会話を続けた。
「部屋に行くの?場所はわかるかしら」
「あ、いや。エルダに謝ろうかと思って」
「ああ、そうなの。でもエルダ王女は、疲れたから少し横になりたいとおっしゃっていたわ。しばらくそっとしておいた方が良いんじゃないかしら」
「そっか……」
意気を削がれて、オリバーは肩を落とす。
「オリバー、喉は乾いていない?」
アデイルからの問いかけに、オリバーはうつむきかけた頭を上げた。
「温めた葡萄酒。醗酵する前のものだから、酒精は含まれていないわ。よかったら飲んで」
アデイルは前掛けで茶碗の汚れを拭った。よく見たら、器には金継ぎをした跡があった。修繕した跡のある茶碗を受け取る。甘い香りが漂って鼻をくすぐった。
「……いただきます」
立って飲むのも行儀が悪い気がして、オリバーは再び椅子に腰かけた。
そっと茶碗に口をつけて、熱い葡萄酒をゆっくりとすすった。濃い果実の甘味と酸味が口中に広がる。喉とお腹が温まって、ほっと息を吐いた。
「美味しい」
「オリバー、葡萄酒好きだったものね」
そう笑いかけられて、答えられないもどかしさと戸惑いがある。
「覚えてない、ごめんなさい」
「あ、ああ。良いのよ、仕方ないことだものね。私の方こそ、昔の話を持ち出して。ごめんなさいね」
とても暖かで、美味しいものだ。だけどどうしても、記憶にない。
「まだ飲むなら、もう少しお鍋に温めてあるけれど」
オリバーは黙って首を振った。思わず下を向いたのをごまかしたかったから。視線を下げたら、足元が視界に入った。
「あれ。ちょっと、ねえ」
アデイルの服の裾に、赤黒い汚れがついている。一瞬、血かと思ったが、茶碗に残った葡萄酒と同じ色をしていたので、オリバーとぶつかった時にこぼれたものが撥ねたのだろう。
「汚れてる」
「本当。落ちるかしら」
アデイルは裾を持ち上げた。覗いた右足の甲を包む白い靴下にも、染みが滲んでいる。
「火傷してるんじゃない。あれ、結構熱かったよ」
アデイルが履いているのは甲が大きく開いた造りの靴だったので、靴下にしっかりと葡萄酒がかかってしまっていた。
「大丈夫よ。これくらい」
「でも、ちゃんと靴下を脱いで確認した方が」
「だめよ、オリバー。あなたくらいの年になったら、目の前で服を脱ぐとか着替えるとか、そういうことは」
アデイルは曖昧に笑った。
「いくら親子でも、そういうことはちゃんとね」
オリバーの心が言いようもなく波立った。
オリバーが言ったことは恥ずかしいことなのかもしれないし、非常識だったのかもしれない。それでもこの胸のざわめきは、羞恥ではないだろう。
「いきなり親子とか言われても、どうしていいかわからない」
オリバーを揺らしたのは、親子という言葉。
会えて良かったと思った。だけどまだこの人を、母親と呼べるほどの想いが自分の中にあるのかはわからない。
「えっ……と、そうよね。こんな、いきなり母親ぶられたって」
視線を彷徨わせるアデイルは、きっと拒絶の言葉を突きつけられたように感じたのだろう。
「違う。その、あなたが、俺のお母さんで。親子っていうの、嫌じゃないんだ。そうじゃなくて」
投げかけられる言葉に、眼差しに、愛情を見つけられるのではないかと期待もする。手探りで測る二人の距離が、縮まればいいと思う。だけど。
「俺、全然覚えてないから。全然、知らないから」
記憶を奪われたことが呪いだと、ライエは言った。それは呪いの種類としては容易いものだろうと思っていたけれど。
だけどそれは、オリバーとアデイルの繋がりを断ち切ろうとするものだった。
小さい頃の好物を忘れてしまう人間は、どこにでもいるだろう。
母親に道徳や常識を教えられて窘められるのも、当たり前のことだろう。
そんなごく普通のことが、当然のことが。自分たちにはあまりに悲しくて、難しい。
オリバーとアデイルが引き裂かれることなく暮らしていられたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
「……どんな人間関係でも、簡単なものはないと思うわ」
静かにアデイルは言った。
「だけどどうして私たちは、親子なのにこんなにもどかしい思いをしなければいけないのかしらね」
痛みをこらえるような母の顔。覚えている分、アデイルはオリバーよりも長い間、ずっと苦しい思いをしてきたのかもしれない。
「火傷の心配、してくれてありがとうね。あなたが優しい子に育ってくれて嬉しい。ライエに感謝しなくちゃ」
オリバーにとって、もう一人の母であるような存在のライエ。出立前に感じた通り、ライエはアデイルと強い絆があるようだ。
「あなたは優しいから、きっとエルダ王女も許して下さるわ」
「そうかなあ……」
「きっと。さあ、あなたも少し休みなさい。落ち着いたら、エルダ王女のところに行くといいわ」
優しく諭すアデイルに、やっぱりお母さんのようなことを言うな、と思う。
掻き乱れる心がある。自分たちはやっぱりまだもどかしいけれど。
少しずつ、一つずつ、近づけたらいい。
母の姿を振り返りながら、オリバーは部屋を後にした。
自分の部屋に引き上げたアデイルは、靴を脱いで寝台に腰かけた。葡萄酒をこぼした足の甲がひりひりとする。
衣服の裾をたくし上げ、下着に吊ってある靴下の留め具を外した。足を包む長い靴下をゆっくりと下ろす。
「ああ、やっぱり火傷してる」
右足の甲は、わずかに赤く炎症していた。
その足首に。
まるで戒めのように、ぐるりと一周文字が刻まれていた。
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