第4話 鎮魂歌

 それからマクシムスは、コミトとたびたび話すようになった。

 その度にリンゴとかパンとか、時には肉なども恵んでもらい、完全に餌付けされていたと言っていい。

 もっとも、コミトの優しさはマクシムスだけでなく、他のひもじい子にも向けられており、競技場では子どもを中心に多くの信奉者が生まれ始めていた。


 こんなに他者に恵んで大丈夫なのか?と思うマクシムスだったが、父親であるアカキオスが施しに積極的なのだ。

「君が、マクシムス君か!娘からきいているよ!とても働き者で心がきれいだと!」

 と、大きな体と大きな手で握手されながら挨拶された時にはたじろいだ。

「お、お父様…」

 と恥ずかしげに服を引っ張るコミトに構わず、豪快に笑うアカキオスは、

「私たち正教徒は、ともに助け合うことが神の御心にかなうのだから、遠慮はいらないよ。困ったことがあったら何でも言いなさい」

 と曇りなき眼で言ってくれた。

「あ、ありがとう、ございます…」

 気後れしたマクシムスには、そう言うのが精一杯だった。


 妹にも会った。コミトの1つ下となるテオドラだ。

 顔は小さく目はぱっちり、鼻筋も綺麗で誰が見ても美少女と評価する顔なのだが、表情全体に険があり、ほんわか優しい姉と比べるととっつきにくい印象を与える。

 そして口が悪い。

 信心深い父親や姉と違い、日曜礼拝に行きたがらず、教会に悪態をつくのだ。

「神は貧しい者にこそオンチョーを与えます、とか言っちゃってさ、言ってる司祭がぶっくぶくに太ってるんだから。自分で言ってることも守れないヤツの言う事は聞きたくないっ」

 と、すでに7歳くらいのときには言っていた。

 納得できないことには目上の者にも、いや目上だからこそ突っかかっていくところがあった。

 だが、マクシムスは気に入られたようで「マキシにい」と呼ばれていた。


 紹介したくはなかったのだが、何の気まぐれか、マクシムスの父も競技場に降りて来たことがあり、自分の息子がお金持ちそうな女の子を話しているのを見てすり寄って来たことがあった。

 そして相手がアカキオス団長の娘だと知ると、手を揉まんばかりに笑顔を浮かべ、

「今後とも息子をヨ・ロ・シ・クねっ!」

 と挨拶し、マクシムスには、コミトたちにも聞こえる音量で、

「絶対に、逃すなよ」

 と言って去っていった。


 いたたまれないマクシムスに、困った感じのコミトは

「お、面白い、お父様ね…」

 と、なんとか笑い顔をつくり、

「まあ、うちの父親も、けっこう恥ずかしいからね…マキシ兄、がんばれ」

 と、テオドラには同情された。


 そんなやりとりがあった1ヶ月後、マクシムスの父が死んだ。


 住居として借りていた集合住宅7階の階段を踏み外したのだ。

 マクシムス11歳の秋のことだ。


 しかしマクシムスは葬儀を出す金もなかったし、墓場を買う金はさらになかった。

 こういう場合、教会に届け出をしてシーツに包んで、漁船にいくばくかの手間賃を払って、海に投げてもらう。その金さえも蒼青に借りた。

 現代日本の死亡手続きに比べればかなり簡単で、あとは借りてる住居なんかの名義変更をいくつかすれば終了だ。

 午後には、マクシムスは普通に馬丁の仕事をしていた。


「まあ、大変だったな」

 馬丁仲間が仕事をしながら声をかけてくる。

「でも、ある意味よかったんじゃないか?」「苦しまずあっさりだからなぁ」「マクシムスも楽になったろ。お荷物がいなくなって」「昼飯も食えるようになるんじゃない?」

 皆からすれば、ほとんど出てくることのない男が亡くなっても、悲しみを感じないのは当然といえよう。

それは、マクシムスにとっても同感だった。

 自分の生活の中で、父の存在は邪魔でこそあれ、役に立っているというものではなかった。それがいなくなったのだ。これからは楽になるだろうという解放感が強かった。

 そんな気分のまま、てきぱきと仕事を終えた。


 夜、マクシムスは競技場で月を見ていた。

 日が落ちると寒さも感じられる季節だ。月も心なしか冷え冷えとしてる気がする。


 コツコツと後ろから近づいてくる足音がする。軽い、子供の足音。

 誰だろうと思って座ったまま振り向くと、白い服の少女がうつむきかげんで歩いてくる。

「コミト…」

 夜なのに家から出ていいのか?とか、そんな服装で寒くないか?とか疑問が浮かぶが、口にできないのがマクシムスである。

「…お話、聞きました。お悔やみ申し上げます…」

「…ああ、ありがとう、ございます?」

 こういう時、どういう返事をすればいいかマクシムスにはわからない。こんなお悔やみ、馬丁仲間からも貰わなかったし。


「悲しいでしょうが、頑張ってくださいね…」

「悲しい?」

 マクシムスはコミトから目を逸らし、月を見る。

「悲しくは、ないかな。いなくなってせいせいしたよ」

「そうで、しょうか…」

 コミトはマクシムスの左隣に座った。

「それでは、亡くなったお父様がかわいそうです…」

「かわいそう?あいつが?」

 マクシムスは吐き捨てるように言う。

「コミトだって見ただろ⁉︎あのクソ親父!怠け者でゲスで!俺の働いた分はほとんど酒に費やして!あいつの子じゃなかったらって、何度も思った‼︎かわいそう?俺の方が何倍もかわいそうだったよっ‼︎」


「…いろんな思いを、ためてたんですね」

 コミトが優しい顔をして言う。

 言われてマクシムスも、少し恥ずかしくなる。こんなに思ったままを口にしたのは久しぶりだった。

「…別に、いいだろ」

「はい」

 コミトは優しい顔を変えずに答える。


「でも、やっぱり…、誰にも悲しまれずに逝くのは、かわいそうだと思います」

「薄情だってか?」

「…悲しみを押し付けることは、できません。ですので、わたしに祈らせて下さい」

「…勝手にすれば」

「はい、勝手にします」

 こうなったときのコミトは、相当頑固なのは知っていた。


 コミトは静かに歌い始めた。

 教会に行かないマクシムスは知らなかったが、コミトの歌っているのは死者を送る霊歌、鎮魂歌だ。

 静かで、ゆったりとしたコミトのアカペラが、夜の競技場に響く。


 その歌を聞きながら、マクシムスは父のことを思い出していた。

 確かに、ダメで怠け者の父だった。だが乱暴ではなかった。殴られた記憶はない。

 優しい時もあった。もっと小さいときには、一緒に遊んでくれたりもした。手作りのおもちゃをくれた事もあった。


 不思議だった。

 コミトの歌を聴いていると、父の懐かしい姿が次々と浮かんできた。

 母親が出ていった時、まだ乳飲み子だったマクシムスはそのまま捨てられてもおかしくなかった。男手ひとつで育てるのは大変だったろうに、育てる選択をしてくれたから今のマクシムスがある…。


 気がつくと、涙が流れていた。


 それに気がついたのか、コミトは歌いながら、マクシムスの背にそっと手を置いた。

 それで一気に感情が溢れた。


 コミトの肩に、縋り付いて泣いていた。

 ずっと。

 歌が終わっても。


「…悪かった…」

 ひとしきり泣いた後、少し顔を赤らめてコミトから離れるマクシムス。

「いいえ。これでお父様も、心置きなく神の元に逝けたと思います」

 優しい顔で、にっこり笑うコミト。

「歌、上手いんだな…」

 ポツリと言ったマクシムスの言葉に、コミトは頬を染めて喜ぶ。

「わたしも、歌を歌う事が好きなんです。うちの父にも『歌い手にならないか』といわれていて、練習してみようかと」

「それは楽しみだな」

 マクシムスは、競技場の大観衆の中で独唱するコミトを想像して、自然と顔が緩んだ。


「あ、今、笑いましたか?」

「…笑ってない」

「笑いましたよね、絶対」

「笑ってないから」

「ウソはよくないですよ、マキシ」

「しつこいな」

「何でそんなにも笑い顔を見せたがらないのか、わたしにはわかりません」

「わからなくて、いいんだよ」


 2人の会話が、月の下で繰り広げられる。










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