第3話 恵む子

 話は9年ほどさかのぼる。


 9歳のマクシムスは、競技場で腹の虫を盛大に鳴らしてうずくまっていた。


 今は昼飯時。他の人は家に一時的に帰ったり食事処に繰り出したりして、人影はまばらだ。

 1日2食が基本のこの時代だが、マクシムスは1日1食もあやしい生活をしていた。

 そもそも、9歳児が1人で仕事をしているのが異例である。

 平均寿命が短いこの時代、男の子なら6歳ぐらいから親の仕事を手伝うのは珍しくない。だが、あくまで手伝いだ。親の監視下の元、安全に責任を持って仕事を手伝わせることになる。

 マクシムスの仕事である競技馬の馬丁(馬の世話全般)なら、特にそれは気をつけなければならないことだ。

 なにしろ訓練中は大きな戦車や馬が競技場内を疾走している。子供に限らず大人でも、誤ってはねられる事故は決して少なくない。


 にもかかわらず、マクシムスが1人で馬丁をしているのは、ひとえに親の問題であった。

 父親は蒼青に属してる馬丁だが、控えめに言って怠け者、口さがない者に言わせれば嘘つき、小心者、ケチ、酒飲み、いいかげん…と、いくつものマイナス評価が並ぶ。

 母親は、そんな父に愛想をつかしたのだろう、マクシムスが乳飲み子の頃に家を出たため、顔も知らない。父は「病死した」とうそぶいていたが。


 そんな彼の事だから、マクシムスが手伝いに入った頃から仕事をマクシムスに任せっきりにして、自分はサボるということが増えていった。酒量も増えた。

 酔いが醒めずに仕事して、不注意で骨折してからは完全にマクシムス1人に仕事をさせ、自分は怪我が治ってない事を口実に酒浸りになっていた。

 周囲の人たちはマクシムスに同情的ではある。時折仕事を手伝ってくれる事もある。

 だが、現状は変わらない。9歳の子が2人分の生活費を稼ぎ、その大半を父親に吸い取られて酒代に消えている。周囲の人の経済状態もマクシムスとそう大きく変わらないので、食べ物を恵んでもらえはしない。


 結果、マクシムスは日常的に腹を空かせていることになる。

 慣れてはいる。諦めてもいる。

 子どもは親を選べない。


 そんなマクシムスに、声をかけてきた女の子がいた。


「あの、お腹空かしているなら……、これ、食べませんか?」

 と、リンゴを差し出してきたのが、当時7歳のコミトだった。


 びっくりした。

 まずは彼女の優しい眼差しに。そして綺麗な服装に。

 白い服なんて、マクシムスたち最下層の馬丁にはあり得ないものだ。つぎはぎもない。

 どこのお嬢さんだろう?見たことはある、気はする。なんで俺に?リンゴ?

 次々と疑問がマクシムスの頭に浮かぶが、回りの人からすると、ぼーっと無反応に見えているらしい。

「ごめんなさい…。差し出口だったでしょうか…」

 彼女もそう思ったようで、目を伏せながらリンゴを引っ込めようとする。

「あ、いただき、ます」

 お腹は空かしていたので、慌ててリンゴを取り、皮のままかぶりつくマクシムス。

「美味い」

 思わず声が出る。

 現代の品種改良されたリンゴとは違い、原種に近く酸っぱいものだが、空腹は最良の調味料だ。1日1食を強いられているマクシムスにとって、この上なく甘美であった。

「良かった」

 ほっとしたように、幼な子が笑った。


 シャクシャクとリンゴを食べながら、マクシムスは彼女のことをちらちら見ていた。

 服装といい、「差し出口」なんて上品な言葉をこんな子供が言うことといい、それなりの家の子だとは思う。そして競技場関係者の子供であることも。

 でも、誰だろう。どこかで見た感じはするのだけど。

「あ、申し遅れました。わたし熊使いアカキオスの子、コミトといいます」

 熊使い、と言われて記憶と彼女が一致する。

『曲芸団で助手をやっていた子だ』


                 ★


 戦車競技会といっても、一日中のべつまくなしにレースをやっているわけではない。

 コース整備も必要だし、ドライバーや馬、観客にだって休憩は大切だ。

 帝都では3、4レースごとにインターバルをとっているが、その間のがらんとした競技場を使って見せ物をだすことが、いつの頃からか定着していた。


 最初は簡単な合唱や寸劇を見せる程度だったが、翠緑、蒼青といった各チームが金を出し、専門の大道芸人を使うようになってくると、だんだんとエンターテイメントとして成長していった。

 何しろ数万からなる観客の前で披露するのだ。PR効果は抜群だし、人気をえた曲技団が帝都で常設の劇場を持つ事もある。人前で喝采を浴びたいと願う人々もある程度はいる。


 熊使いアカキオス一座といえば、このところ人気急上昇の曲技団だ。

 いくつもの球を使った大道芸や踊り、音楽もあるが、メインは熊と団長の掛け合いで、よく訓練され、やたら人間くさい仕草をする熊を相手にしたパントマイム的なコントが観客の人気をさらっていた。

 そのアシスタントとして、この女の子は羽と輪っかをつけた天使の格好でコントに花をそえていた。それを関係者通用口から見ていたのを思い出したのだ。


                   ★


『そうか…、それでこの服、この言葉使いか』

 貴族から見れば、芸人も馬丁も同じ最下層民だが、マクシムスからすれば10人近い団員を使うアカキオスと自分は、天と地ほども経済状態が違う。

 このコミトという少女も、人前で演技できるように、立ち振る舞いや言葉遣いをしつけられているのだろう。


「もうひとつ、食べますか?」

 芯まで食べ尽くしたマクシムスをみて、コミトがまたリンゴを出してきた。

「あ、ありがとう…」

 2つも貰うのはどうか、とは一瞬思ったが育ち盛りの空腹には勝てない。リンゴをもらって食べるマクシムスを、笑顔で見るコミト。


「…あの、何で?」

 口下手で黙っている事が苦にならないマクシムスにとって珍しいことに、にこにこ笑って見てるコミトに思わず声をかけてしまう。

「あ、リンゴはね、カエサルのをもらったの」

「カエサル?」

 マクシムスが聞きたかったのは、なぜ自分にリンゴをくれたかだったのだが、カエサルという名前に反応した。

 カエサルといえば、帝国創成期の英雄の名前だ。『神君カエサル』とも言われ、皇帝の異名ともなっている。そんな名前を名乗る人がいるのだろうか。

「うん。熊のカエサル。うちの看板役者」

 なるほど、熊か。熊使いのあの熊のことだろう。それで、リンゴか。

「熊の食べるものをもらって、大丈夫?」

「カエサル、最近太りすぎだからちょうどいいの」


 コミトが言うには、猛獣に分類される熊は市内では飼えず、この競技場に併設されてる檻で飼っているそうだ。そのために、競技場のすぐそばに住居を構えているという。

 この競技場も、かつては闘技場を兼ねており、剣闘士の試合が行われることも多かった。その名残りで獅子や豹の檻が残っている。かつての剣闘士の相手とされたものだ。

 今馬房となっている所も、檻を改造したものが多い。

 正教が帝国の国教となった頃から、殺し合いを肯定する剣闘士の試合は忌避され、興行は戦車競技に一本化されていた。

 いつもなら、父親が熊を出して芸を仕込んだり、大道芸で小銭をかせいだりしているらしいが、今日は休養日で、コミトが餌やりに来たとのことだった。

 それで時間が余ったので競技場の方を見にきたらしい。


「カ、カエサルの事は、分かったけど…」

「?何でしょう?」

「何で、俺に、恵んでくれるの?」

 マクシムスにとって1番の疑問だったのだが、コミトはなんでもないというふうににっこり笑う。

「お父様に言いつけられているのです。お腹の空いた子には食べ物を分けてあげなさい、それが神様の教えなのだから、と」


 二の句が継げなかった。

 そんな事を言う子は初めてだった。

 自分より歳下であろうその女の子が、光を放っているようにマクシムスには思えた。




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