第2話 月下の恋人

 競技会の次の日の夜、マクシムスは競技場のスタンドにいた。


 昨日の喧騒が嘘のように静まりかえっている競技場に、半月よりやや大きい月が優しい光を降り注いでいる。

 大会終わった直後は観客の出したゴミや食べ残し、それを狙うカラスでいっぱいだった競技場も、今日1日かけて清掃されて清められている。


 競技会がない日は、関係者以外立ち入り禁止の競技場。夜ともなれば併設されている馬房の夜番が数人残っているくらいで、時折遠くから馬のいななきや馬蹄の音が聞こえるのみ。

 この誰もいない夜の競技場が、マクシムスのお気に入りだ。

 やるべきことを終え、寝る前のひとときに月や満天の星を見るのが、子供の頃から好きだった。

 ひとしきり夜空を堪能した後、馬房に戻り寝る。雨や曇りの日はその限りではないが、降水量の少ない地域なので、冬場以外ならほぼ毎日同じ行動をしている。


 と、誰かが競技場のスタンドを歩く足音がした。

 コツコツと、静かな石造りの競技場を響かせて、マクシムスに近づいてくるのがわかる。

『今日は、来れたんだな…』

 振り向かなくても、マクシムスには誰なのかわかっていた。


 基本的に立ち入り禁止の競技場だが、関係者用の通用門に鍵が掛かってるわけではないので、知っている者なら入る事ができる。

 それを利用して、時折りマクシムスの趣味に付き合う奇特な人がいた。

 もし知人がこの時のマクシムスの顔を見ていたなら、無表情と評される彼の顔が弛んでいるでいることに気がつき、そして驚いただろう。「マクシムスも表情変えるんだ」と。


「こんばんは、マキシ」

 柔らかい声がかかる。「マキシ」と呼ぶ事を許している女性は少ない。

「ああ」

 マクシムスは振り向くこともなく、ことさらぶっきらぼうに答える。

「今日もいい月です」

「ああ」

 慣れているのだろう、女性は気にすることもなく、マクシムスの左横に座る。

 チラッと横目で彼女の顔を見るマクシムス。

 月明かりに浮かぶその顔は、名工に作られた彫像のようだ。

 女性というには幼く、少女というには大人びている、脱皮途中のあやうい美しさとでもいうべきか。

 黒髪を編み上げた髪型、落ち着いた着こなしからは成人女性の色気を感じるが、顔つきにはあどけなさも残り、切長の目はどこまでも優しい。

 店で人気があるのも納得の美人といえる。


 彼女の名前はコミトという。歳は16歳で、マクシムスより2つ下となる。

 そして、娼婦として働いている。


 この時代、ウェイトレスと売春婦との境目は定かではない。食事提供をする一方で、客の求めに応じて性の提供も行うことは広く行われている。

 ただ、食事提供重視の店もあれば、性提供中心のいわゆる「風俗店」もある。

 コミトが属しているのは、後者だった。


 コミトはマクシムスの視線に気がついたのか、ニコッと笑う。

「昨日は大活躍だったそうですね。お店で聞きました」

「ああ、いや…」

「最終レースで大逆転して、蒼青に総合優勝をもたらせたって、青のファンらしいお客さんが興奮気味にマクシムスの名前を連呼してましたから」

「…なんか、恥ずかしいな…」

「そうですか?わたしは自分の事のように嬉しかったです。わたし知り合いですって思わずいいそうになっちゃいました」

 恥ずかしさの意味が違うんだけど、とは思ったが口には出さない。


 自分の知らない場所でどんなこと言われようと気にはならない。

 だが、昨日のレースは決して褒められたものではないのだ。本来ならルシウスに緑車2台張り付かれた時点で負け確だったし、1台を引き付ける仕事もマクシムスはできていなかった。

 ヒッパルコスも赤車との競り合いで、思ったより脚を使っていたのも幸いしてなんとか勝ったが、タナボタ勝利でしかない。それを褒められても…、というのがマクシムスの正直なところなのだ。

 とはいえ、そのファンという客にとっては、内実はどうでもいいのだろう。勝って逆転優勝をもたらしたという事実だけで。


「マキシが勝つのが分かっていたなら、見に行きたかったです…」

「…次は、見に来るか?」

「えっ」

「今回の勝利で、ルシウスさんが第三階梯に推薦してくれるらしい。18歳で三段騎手は異例らしいけど、年俸も賞金の取り分も上がるし、これからは重賞レースが主戦場になると思う。だから…」

「…やっぱり、やめておきます」

 コミトは弱々しく答える。

「戦車レースは心臓に悪いですから。わたし怖がりですので。

もし、マキシが事故ってるところを目の前で見たりしたら…、多分……」

 最後の方はよく聞き取れなかったが、返事の代わりのように、顔をマクシムスの左肩に寄りかかるコミト。


「…大丈夫」

 マクシムスはコミトの背中に手を回し、彼女を抱えるように左肩をつかむ。

「今まで大きな怪我をしたことはないし、その、絶対はないけど…」

 こういう時、うまく励ます言葉が言えればいいのだが、口下手な彼には良い言葉が浮かんでこない。

 代わりに回した手に力を込めて、コミトをぐっと引き寄せる。

「……うん」

 コミトの首がうなずくのが、左肩から伝わる。


 しばらく寄り添いながら、黙って月を見る2人。


「不思議ですね」

 ポツリとコミトが言う。

「何が?」

「毎日毎晩、お客さんと肌を合わせて、口を吸われて、身体中をまさぐられてるですよ、わたし」

 マクシムスが想像したくないことだが、それはコミトの日常だろう。

「でも、今こうしてマクシムスに肩を抱かれているほうが、胸がときめくんだなぁって。なんでしょう、とっても満たされた気分なんです」

「…俺も、だ」

 マクシムスはもう一度、つかんだ腕に力をこめる。コミトの体温、においを感じる。

「……うん」


 唇が、合わさる。


「俺、頑張るから」

 離れたマクシムスの口から、こぼれ出る言葉。

「レースに勝って、金稼ぐから。それでコミトを買い戻す」

「……待ってます。マキシ。わたしも稼ぎます」

 目を細め、柔らかい笑みを浮かべるコミト。


 再び、唇が合う。

 

 月に照らされた2人を、邪魔する者はいなかった。


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