競技場の月 〜戦車乗りと娼婦の物語〜

墨華智緒

第1話 パンとサーカス

 もう日差しはかなり傾いていたが、競技場の熱気は冷めやらぬままだ。


 それも当然。

 何しろ、今日の最終レースの発走合図を今か今かと待っている所だからだ。 

 チームポイントも拮抗しており、ここまでチーム翠緑が1位だが、ライバル蒼青も僅差で続いている。

 緋赤や真白はポイントこそ離されているが、最終レースは賞金も破格だ。手を抜く理由はない。

 大枚をかけている者、純粋にひいきのチームを応援する者、酒がまわり、ただわめき散らしている者など、様々な観客の声が戦車競技ドライバーに降りかかる。


 戦車。チャリオットとも呼ばれる、2頭または4頭の馬に引かせた馬車のことである。

 かつては戦場の主力であったこの兵器も、民衆の娯楽の対象となって久しい。

 皇帝や貴族、有力者が民衆に「サーカス」として無料提供される戦車のレースは、公共事業や慈善事業、または売名広告の意味合いをもち、この帝国では広く行われている。

 そうなれば、かつてはスポンサーの奴隷がおこなっていた戦車競技の御者にも、専門職が生まれるのは必然と言えよう。その御者のことを一般にドライバーと呼ぶ。


 そして今ここに、1人のドライバーが出走の合図を待っている。

 チーム蒼青の駆け出しドライバー、名をマクシムスという。


 8台の重戦車(4頭立て戦車)がゲート内に並び、入れ込んだ馬のいななきがそこかしこで聞こえる中、マクシムスは無言で佇んでいた。

 やがて、長くて低い音が響き渡る。出走間近を告げる角笛だ。

 観客からは、ウオォォォーッ‼︎という歓声。

 だが角笛のファンファーレが鳴り止むと同時に、観客のざわめきも瞬時に収まる。

 2拍ほどの時間の後、ばね仕掛けのゲートが一斉に開く。


「行けっっ‼︎」

 間髪入れず、マクシムスは鞭を入れてスタートダッシュさせる。

『俺の役割は他車を牽制し、エースの進路を開けることだ』

 マクシムスは周囲を確認しながら、自分の仕事を肝に銘じる。


                   ★


 帝国での戦車競技はチーム戦である。

 この帝都の場合、上記4つ(翠緑、蒼青、緋赤、真白)のチームがレースの規格に従って出走させ、ポイントを取り合ってその累積で勝者を決める。

 現代日本の運動会方式、といえば理解しやすいだろうか。


 レースの規格も多様だ。

 午前中のレースは軽戦車(2頭立て馬車)中心で、各チーム1台出走の4台が多い。

 1番基本となる競技場を5周して勝敗をつける、7周や10周に伸ばす、障害物をおくなど多少の違いはあるものの、基本的にスピード勝負であり得られるチームポイントも低い。

 出走するドライバーも新人が多く、マクシムスも午前に3走して2勝をあげている。


 レース数や大会規模にもよるが、午後からは各チーム2台出す重賞レース(ポイントも賞金も「重く」配分されるため、こう呼ぶ)となる。

 チームの作戦や駆け引きが重要となり、当たりや衝撃に強い重戦車が邪魔しあい、クラッシュも少なくない。

 ポイント配分にも工夫がなされ、8台立ての場合、「順下り」と言われる1位8P、2位7P、3位6P…と規則的に下がるレース、「入賞式」と言われる1位15P、2位10P、3位5P、4位以下は全て1Pのレース、「総取り」と言われる1位30P、2位以下は1Pというレースもある。

 ポイントの規格に合った作戦、馬と車体の選択、相手チームの陣立て予測と考えることも多く、観客の人気も高い。


 しかも、数多いクラッシュは人々の興奮を誘う。ドライバーが跳ね飛ばされ、血が競技場に滴り落ちるほどに、観客の惨忍な気持ちを掻き立てる。

 娯楽の少ない時代だ。威厳ある紳士が、清楚な婦人が、高名な聖職者が、仮面を脱ぎ捨て血に酔い、罵声と哄笑を上げることが許される場なのだ。


                      ★


『30Pの総取り式、か…』

 いまさらレース規格にイチャモンつけても仕方ないのはわかっている。下位にも逆転できる状況を作るため、最終レースが総取り式になるのも通例だ。だが、厳しい状況なのは変わらない。

 ポイントは翠緑に4P負けている。僅差だが、30Pの総取りの前では僅差は意味を持たない。1位でなければビリと同じだからだ。リードされているという事実が重い。


 マクシムスは前を見る。

 翠緑の重戦車2台が壁を作っている。頭抑えるのはレースの基本とは言え、蛇行しながら牽制する、いわゆる『腰振り』走法を2台ともやっているのだ。

 自分たちが勝ことより、蒼青うちを勝たせないことを主眼を置いているシフトだ。

『あんたらに腰振られたって、嬉しくねぇっての』

 心の中で悪態をつくも、どうしようもない。

 2台の間を抜こうとしても、そのスペースを2台が作らせない。馬も怖がる。


 ちらっと後ろをみると、もう1台の青車が白車にまとわりつかれている。

 やはり、翠緑は真白と手を組んだようだ。

 真白はチームポイントが足らず、たとえここで勝っても翠緑には及ばない。だが、こういうチームのモチベーションを保つために、ポイントに関係なく勝てば貰える賞金は高めに設定されているのだ。

 緋赤もチームポイントが足らず優勝不可なので、翠緑からすれば、蒼青以外が勝つなら逃げ切れる。そして、賞金を真白に譲る代わりに、緑白で青を抑える。誰でも考えつく戦略だ。


 他の車体を素早く確認する。

 緋赤の2台は後方で伺っている。緑白に味方するわけではないようだが、蒼青うちに協力してるわけでもない。

 緑白vs青のなかで、牽制やクラッシュが有れば漁夫の利でノーマークの赤がまくる展開もあり得る。無理はしないが、行ける時は行く、という感じであろう。


 もう1台の白車は、と見れば、マクシムスの斜め後方にぴったりつけられていた。

 真白のエースドライバー、ヒッパルコスだ。

 真白は今、有力なパトロンがあまりおらず、チームとしては弱体しているが、ヒッパルコス個人に対しては真逆の評価が与えられている。

 曰く勝負勘は抜群で、重戦車を軽戦車のように軽々操作することから、「白獅子」の異名を持つ。それ以上にクリーンな試合運びと、負けた相手にも惜しみない称賛を与える人格者としての評判が高い。ドライバーの中では他チームでも信奉者がいるほどだ。

『ヒッパルコスさんに勝たせるつもりだろうが…簡単には行かせねぇ』

 蒼青うちのエース、「蒼炎あおび」のルシウスも、ヒッパルコスに劣らない技量の持ち主だ。

 今から脚を使うと最後まで持たないので、白の妨害を甘んじて受けているが、勝負どころになれば上がってくるはずだ。

 だから、マクシムスとしては前の壁をこじ開け、翠緑の前に出たい。こっちが頭おさえてコントロールする。

 スタートダッシュを緑車に進路妨害されて後手を踏んだが、まだ巻き返すチャンスはある。


 翠緑の2台が折り返し地点に差し掛かる。

 戦車競技の見せ場のひとつは、いかにスピードを落とさずに折り返すかにある。

 陸上競技のトラックのような半円形コーナーとは大きく違い、モーターボートのような折り返し地点をぐるりと回るのだ。そして中央分離帯のような仕切りで分けられた反対側を進む。

 スピードを落とさないように大廻りすればインが開く。インを閉める小廻りは速度が落ち、馬の操縦も格段に難しくなる。時には馬が走る気をなくすこともあるのだ。


『くそっ、さすがだよ』

 翠緑の2台は折り返しでも、連携しあって壁を崩さない。

 すなわち、外側の車体は多少の減速で大廻りし、内側の奴は大減速しつつも回転を決める。

 言うは簡単だが、4頭の馬の内側2頭を足踏みに近い形にして方向転換させる一方、外側2頭を横足といわれる斜め走法させる内側の車体の操縦は、並大抵の腕ではできない。

 加減をしくじると、遠心力で車体が横転することもあるのだ。

 翠緑ドライバーのレベルの高さをあらためて感じる。

『まだだっ。まだチャンスはあるっ。諦めるなっ』

 マクシムスは自分に言い聞かせる。


 この最終レースにマクシムスをパートナーに選んでくれたのは、ルシウスさんだ。

 軽戦車レースでは勝てても、重賞レースでは場数も少ないマクシムスだったが、その熱意を買ってくれての抜擢だ。ここでエースの勝利に貢献して、使える奴と思われたい。

 そして、早く重賞で勝ち星をあげたい。金を稼ぎたい。


 急いで金を稼がねばならない理由が、マクシムスにはあるのだから。


 マクシムスは手綱を片手で持ち、空いた左手を伸ばして一頭の馬の尻を軽く撫でる。

「三日月」の名で呼ばれているその牝馬は、『何よ?忙しいんだけど?』とでも言いたげに、耳を動かす。

『頼むよ、三日月。無理させてしまうけど、勝ちたいんだ。絶対』

 三日月のことは仔馬の頃から知っている。ずっとマクシムスが世話をしてきたのだ。

 三日月だけではない。他の『ラコーニア』『狐尾』『ヘスティア』もそうだ。

 一般に、牡馬に比べ牝馬は体格が小さく、当たりの強い重賞にはあまり向いているとは言えない。だが、マクシムスはこの4頭の牝馬が御者の命に躊躇なく動ける度胸の良さがあると感じていた。


 馬は頭のいい動物だ。臆病でもある。

 だから、ドライバーが狭い場所に戦車を突っ込ませようとしても、馬が怖がって命令拒否することも多い。御者との信頼関係が重要なのだ。

 その点、この4頭をマクシムスは長年世話をしてきた。だから、この最終レースに抜擢されたと知った時、この4頭で出ることを決めたのだ。

『と、そんなこと考えてる時じゃねぇ』

 残りは2周を切った。そろそろレースは動く。はずだ。


「白獅子」ヒッパルコスがじわりと上がってくる。

 大外を駆けているが、やはりと言うべきか、翠緑2台は邪魔しない。

『ならばっ』

 白獅子に合わせて鞭を振るう。狙うは白車と緑車の間。

 外側の緑車がマクシムスに合わせてくる。

 緑車のドライバーが『お前は行かせん』とばかりに、睨みつけてくる。

 しかし、マクシムスは睨み返したりはしない。見てる方向が違う。


 大歓声を受けながら、もう一台の青車が開いた緑車の間を差そうと突っ込んでくる。

「ルシウスさん‼︎」

「待ーたーせーたーっ‼︎」

 大歓声と、走駆する30頭あまり馬蹄の音、砂塵巻き上げて回る車輪にも負けず大音声だいおんじょうが響く。ダッシュに遅れたらしい白車が追い縋る。

 慌てて緑車2台が「蒼炎」を挟みにかかる。

「どけどけぇーっ!」

 ルシウス車が腰振りをする。ガシッと木が噛み合う音がして、外側の緑車のスピードがガクッと落ちる。

 近寄ってくる緑車の木製車輪に、振った車体の角を当ててリタイアを狙う大技だ。タイミングを間違えると振った方が吹っ飛ぶ。


「う?」

 しかし蒼炎ルシウスといえど、2台相手は苦しかったようだ。内側の緑車に噛み合い、両車そろってずるずる後退していく。

 ウオォォーッという歓声と、アァーッという悲痛の声。

 それを予想してたかのように、ヒッパルコスが動く。漁夫の利を狙った緋赤のエース車も最内を駆ける。

「マクシムス‼︎ついてけぇーッ‼︎」」

 後退しながらも、ルシウスが声を枯らす。


 言われるまでもなかった。残された青車は自分しかいない。

 軽快に駆ける白獅子を一心に追う。

 と、ヒッパルコスがマクシムスをチラッと見た。ヘルメット下の顔が少し笑う。

『ついて来れるかな?』

 とでも言っているのか。

 白獅子が急加速して切り込んでいく。

 大外から折り返し地点にある石柱に向かい、綺麗なターンを決めて前を向く。

 急に現れた(ように見えた)白車に驚いた様子の赤車だったが、猛然と併せていく。

 直線中は競り合っていたが、次の折り返しを最小の速度低下で回ったヒッパルコス車に比べ、速度を落としきれなかった赤車は外に振られて横転した。


 再び湧き上がる歓声。

 ゴールまでは1周を切った。ヒッパルコスは悠々と後ろを向いて、そして気づく。

 マクシムス車が内側を突いて、迫ってきていることを。

 一度は目を見張るも、すぐにニヤリとするヒッパルコス。

『やるな』

 と、口が動いたようにマクシムスには見えた。


 外側をヒッパルコス車が駆け、1車体半遅れて内側をマクシムス車が走る。

 そして最後の折り返しに入る直前、ヒッパルコスは内側に斜行してくる。

 進路を塞ぐように迫ってくると、衝突を避けようと反射的に手綱を引きたくなるのが騎手のさがだ。

 だが、マクシムスは耐える。白獅子とは逆斜行で衝突から逃げる。

 やがてヒッパルコスはさっき見せた見事な切り込みターンを決め、さほどスピードを落とさず大外から反対側の大外へ渡っていく。

 それに対してマクシムスは小刻みなブレーキ&ゴーを繰り返して折り返す。最短ルートを通れるが、馬の負担は大きい。特に内で回転するラコーニアと三日月の2頭は急ブレーキと急発進の差が激しく、馬体を跳ねるようにして方向転換している。

『勘弁してよねっ、もうっ』と耳がパタパタ動くが、我慢してマクシムスの指示に従ってくれている。


 最終直線で2台が前を向いた時、最短ルートを通ったマクシムスが僅かに前に出ていた。

 オォォォーッというどよめきが観客から上がる。

 操縦術で定評のある白獅子が折り返しで新人に逆転されたのだ。あり得ないものを見た、という思いが声になっていた。


 だがまだ決着がついたわけではない。ここぞとばかりに鞭を入れる白獅子。

 ヒッパルコス車の馬は4頭とも牡馬だ。牝馬のみのマクシムス車の1.2倍の馬力といえる。

『ここまできて、負けれるかっ』

 マクシムスも鞭を入れる。三日月たちも泡を吹きながらも頑張ってくれている。

 思わぬ熱戦に観客も立ち上がっている。ボルテージは最高潮だ。

「マクシムスーッ‼︎」

 と、リタイアしてコースアウトしたルシウスが、髭顔をくしゃくしゃにして声を上げれば、

「ヒッパルコスさん‼︎差してくれぇー!」「白獅子ー‼︎」

 同じくコースアウトした翠緑&真白のドライバーも叫ぶ。


 両車、砂塵を巻き上げながらゴールに飛び込む。


 マクシムスは審判席に視線を飛ばす。9人の審判員が旗を上げる。

 青、青、白、青、黄(同着または不明)、青、黄、白、青。


「……勝った…」

 声が漏れる。思わず、ガッツポーズ。


 一拍遅れて、競技場全体が声で爆発した。



 …………………………………………………………………………………………………………



 この物語の舞台は6世紀ごろのビザンツ帝国、コンスタンティノープルをモデルにしてます。

 ですが、当時の戦車競技については分かっていないことも多く、私自身の知識も貧弱なため、競技や操縦術などは思いつきで書いています。

「この辺り、史実と違わない?」「馬はこんなふうに動かないよ」などとご意見があれば参考にしたいです。

 まあ、作品の根幹に関わる部分で史実に合わない場合は、6世紀ビザンツ帝国ににしますので、悪しからず。







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