したい

@con

第1話

 夏の深夜、六畳間の一室で二人の若者が坐位と横臥の中間のようなだらしない姿勢でくつろいでいた。上半身裸で、暑さ対策の濡れた手ぬぐいを双肩に引っ掛けている。いずれも底抜けにしけた面をしている。熱気と湿気と臭気が淀んだ空気の中、若者の一人の秋田は「やりたい」と切実につぶやいた。


 おれが「そんなにか」と継ぎ足すと、我が友は「やりたくてやりきれない」と愁訴した。それはもはや完全にフォークだった。もしおれたちのどちらかがギターをたしなんでいれば世人をうならせる名曲が生まれたのだろうが、あいにくとおれも秋田もゼロ芸に秀でる無為徒食の民であった。したがって秋田のつぶやきは室内をうっとうしくさせる効果しかもたなかった。

 そんな魂の悲鳴に返せる誠実な言葉をすぐには思い浮かばず、おれは茶碗に入れていた蒸留酒を黙ってあおり、手をこまぬき、うなった。うまくもなんともない酒で、なんの風味もないどころか油粘土のような臭いがする酒だった。しかしとにかく安いというただ一点の理由によって、おれたちのような貧乏学生には重宝がられていた。

 ラベルは何も貼っておらず、歴戦を経て擦り傷だらけの不ぞろいな重たい瓶に液体が陰気に入っていた。大学の近所の商店ただ一軒でのみ売っているのだが、店主の手による密造酒に違いない、と愛飲者みなが半ばは自嘲で、半ばは慰めで口にするようなしろものであった。

 頭がおかしくなるために使うだけの薬物で味は悪かった。最悪といってよかった。飲む前から独特の臭気が吐き気を催させ、飲んでからもどぎついアルコールに吐き気がした。ふと、なにゆえ我々はこんなものを自由意思にもとづいて摂取しているのだろうかと自問自答すれば、みじめだからに違いなかった。とりわけ夜はいっそうみじめになった。それで、酒を飲むともっとみじめになるのだった。

 今日もおれたちはみじめだった。大学の夏季休暇中で、何もすることがなかった。茫洋たる暇と澎湃たる性欲だけがあった。実家に帰る金も動機もなく、アルバイトに勤しむほどの元気もなく、学生の本分に励むほどの誠実さもなく、ただひたすらに何も生み出さず若い日々を灰色に塗りつぶしていた。

 毎日、午前二時とか三時まで何をするでもなく起きて、眠気が暑気に打ち克つとようやく汗にまみれながら腐った畳に身を投げ、昼過ぎに暑さの限界で不機嫌な目覚めを迎えるとなんら有意義な目的をもたないまま近所や大学内を日が傾くまでさまよった。

 おれが茶碗を空にすると、秋田も自分のやつをぐいっ、と空けた。それから二人とものろのろと次の一杯を手酌でいった。つまみは水と塩と調理油と手巻き煙草だった。

 手巻き煙草はシケモクで作ったやつで、おれと秋田は大学で教授たちの部屋を回っては殊勝な顔つきで「先生、灰皿をお掃除させていただきます」といって吸殻を集めるのがこの長期休暇における数少ない生産性を伴う行為だった。三度にいっぺんぐらいは「お煙草は半分ぐらいのところで止めるのが健康によろしいようですよ」と付け足し、上質なシケモクが出てくる可能性を上げようとした。

 いろいろ試した末に、巻紙には辞書の紙っぺらが適していることをおれたちは突き止めた。最初はおれも秋田も自分の英和辞典のページを破って使っていた。「Aと比べればZで始まる大事な単語はあまりなかろう」ということで、おれたちの辞書からはzygomaとかzephyrとかいった単語が消えていった。おれたちの人生からこれらの単語を使う機会は金輪際失われた。

 Zで始まる単語をすべて灰にして、Yも消していいかどうか迷ったころに、秋田がほとんど新品の辞書を大量に発見した。人文学部棟のゴミ捨て場に仏和辞典が叩き捨てられて山積みになっていたのだった。事情通に聞いた話によれば、仏文科のどこかのゼミが崩壊して、結構な数の学生が離脱したとのことである。人生はままならないものだと彼ら彼女らの今後を思いつつも、捨てる紙あれば拾う紙あり、おれたちはそのお宝をせっせと自分らの下宿に持ち帰った。仏和辞典で作ったシケモク煙草をふかすと、ときどき秋田は「本場、パリの香りが聞こえてくる」とかいった。

 酔いが回った秋田は、鬱勃たるパトスに任せて窓から女性器の名称を大声で叫んだ。夜のしじまに破廉恥な単語がよく響いた。おれは秋田の気持ちにおおいに共感できるため、彼のやりたようにやらせた。秋田は酒が入ると女性器の名称を連呼する奇癖をもっていた。しかしこれは彼のモラルが常人よりも低いことを表しているのではなく、むしろ彼は非常に素直で正直で誠実な男であり、我々同世代の声を代表しているだけなのである。実際、秋田の叫びにおれは人知れず静かにうなずいた。それほど、おれたちはやりたかった。やりたくてやりたくてどうしようもなかった。


 例えば先週おれたちはエイの「具合」が大変すばらしいという話を聞いた。みもふたもない表現をするならば、エイの性器はヒトの女性器のようであるという与太話をどこかで仕入れたのである。

 早速、おれと秋田は海に向かった。もちろんおれたちはクルーザーも漁船も屋形船も所有していなかったが、少なくとも陸上でくすぶっているよりかは海に近づいた方がいくらかはチャンスが巡ってくるような根拠のない期待があった。

 おれと秋田は早朝の夏の砂浜を歩いた。歩き始めたときはまだ惑星が見えた。お天道様が水平線から顔を出すまでは涼しかったが、それより後は無論のこと暑かった。思いのほか蚊に刺されたし、セッタ履きの足は砂にまみれるし、何より常日頃体を動かさぬうらなりの身に朝の散策は堪えた。

 おれたちはすこぶる冴えない顔で全くとぼとぼ歩いた。

 一キロメートルに満たない海岸線を四回も往復したあたりでさすがのおれたちの獰猛なエロスも屈服した。

「時に秋田よ、一つ物を尋ねるが、お前さんは生まれてこのかた、砂浜にエイが打ち上げられている様を見たことがあるかね」

「ないね」

「奇遇だな。おれもそうだよ」

 おれたちは熱くなり始めた砂浜に腰を落とすと、二人黙って高くなりだしたお日様の光を反射する海面を眺めた。未練げをこめた視界にもエイは映らなかった。寝不足に加えて疲労困憊だった。軽口を叩く元気もなかった。おれたちが朝の七時に往来を歩いていたとすればそれはいわずもがな徹夜明けを意味するわけで、いわんや日の出の散歩をや。

 結局、おれたちは二時間ほどそこで気絶するように眠っていたようだった。遠い宇宙から放たれた極直線の太陽光線が脳天と顔面に突き刺さって覚醒した。周囲には半裸、というよりは水着姿の人間ばかりが目についた。おれたちのような無粋な格好をした人間はまるで見当たらず、目覚めた直後、就学前かそこらのアホ面をしたガキが物珍しそうにおれたちを眺めていた。

「暑い頭が痛い喉が渇いた死にたい」

「みなまでいうな、情けない」

 おれと秋田はヘドロがまとわりついているかのような不潔で重たい体を引きずり、どうにかこうにか水飲み場までたどり着き、そこで思う存分に水を飲んで衣服と体を洗浄した。

 人心地つき、ある程度は人間らしい理性も戻ってきたところで、おれたちは海水浴場として整備されている砂浜に全身ずぶ濡れの姿で戻った。おれたちが住んでいる都道府県では指折りの海水浴場で、昼頃にもなれば多くの人間でごった返すのが常とのことだった。おれたちは「こいつらはなんの目的があってこんな他人が大勢いるところに好き好んでやってくるのか」と互いに毒づいだ。自分たちのことは棚に上げて。

 視線の先を水着の女どもが通り過ぎていった。場違いな成りをしたおれたちは何をするでもなく砂にまみれるままに浜辺に座っていた。女どもは健康的な肉体をした男どものもとに向かい嬌声を上げた。

「ああいう女どもをはべらしているやつというのは、率直にいってどういう生業の人間だと思う?」

「いわれるまでもない! とてつもなく悪いことをしているに決まっている」

 おれたちは水着の女どもと屈託なくやりとりしている男どもの風体を品評した。精気に満ち溢れ、これまでの人生で絶えず正解だけを選び続けた、この国の将来を担うことに対する自信と確信に満ちた顔つきをしていた。後先考えないのであればやつら鼻持ちならぬ選良に罵詈雑言を浴びせて鼻っ面をぶん殴りたいところであるが、おれも秋田も反撃の一発でのされる自信と確信があった。したがって、おれたちは小声と心の中でのみ連中を全身全霊で罵った。それが正義であると自分を慰めた。

 あの連中が、おれたちが毎日毎時妄想してはため息でごまかしているありとあらゆるわいせつな行為にふけっていることを考えると嫉妬と羨望で気が狂いそうになり、精神の安寧を保つために殊更に高邁で潔癖な行為を希求するふりをした。

「オームの法則」

「キルヒホッフの第一法則」

「第二法則」

「テブナンの定理」

「アンペールの……やめよう、アホらしい」

 性欲が服を着ている男二人はまだみじめったらしく水着の女どもを眺めていた。凝視していた。垂涎のまなざしを向けていた。率直にいえばこの場でそのままいたし始めてもおかしくないほどの気持ちであったが、それがどういう結果を招くのか判断できるぐらいの怯懦な理性は持っていた。

 おれたちは明るくさわやかで享楽的な日向に満ちたこの場において完璧に反対の属性を帯びた異物であった。埒外の存在であった。おれたちは女どものありとあらゆる身体部位をなめまわしたが、女どもはそもそもおれたちがそこに存在していないかのように振る舞っていた。嫌悪感も羞恥心も、なんらの感情もおれたちに向けられることはなかった。おれたちは道に転がっているちっぽけでくだらない石ころだった。おれたちが連中の人生に与える影響は皆無であったが、おれたちは連中から蹴飛ばされて踏みつけられていった。

「兄ちゃんら、死んどんのかと思ったわ」

 さっきのガキが再びおれたちの近くにやってくるとずけずけした口をきいた。子供にだけは見えるということは、ひょっとするとおれたちは知らぬうちに妖怪のたぐいへと成り果てたのかもしれない。

「ハハハ、そう見えたかね。いいかい、ぼくたちは大学の勉強の一環としてこうして実在しているのだよ」

「大変なんだぜ。けどまあ、きみもあと十年もすればわかる」

 この坊やはおれたちが薬遊びをして死んだフーテンのたぐいと思っていたようだった。おおかた、親にでも偏見を吹き込まれているのに違いない。しかし、おれたちがまがりなりにも大学生であると知ると、「へえ、そんなら学士様か」とわかりやすく感心した。よく見ればこのお坊ちゃんはなかなか利発そうな顔をしているので、将来はきつと人の情けを知る立派な丈夫になることだろう。

 おれたちは未来ある若人の夢を壊さないよう、ぼろが出る前になるたけ賢そうな顔つきと足取りでその場を離れた。それに、子供の親がやってくるとめんどうくさそうなことになると思えた。まだお午には少し時間があったが腹が減っていた。海の家を覗いてみると幸いにして客は皆無であった。椅子に腰掛け、日差しを避けられ、何かしなければという焦燥感を当面は忘れることができる。

「おい、秋田。いくら持ってる。帰りのバス代を取っておくならおれはこれで全部だ」

「気が合うな。おれも似たり寄ったりだよ」

「カレー……は高いな……かき氷……なんて食ってもなぁ……うどん……ラーメン……あ、焼肉定食、肉、肉かぁ……」

 おれと秋田は品書きをにらみ、値段をにらみ、内容物から得られる満足度を値段で割った値を計算しながら、最大限腹を膨らましつつも学士としての最低限の面目を保つ方法に苦心した。

「お決まりか」

 店主らしい老婆がつっけんどんにお冷を机に置いた。注文せずに逃げ出す算段もしていたところだが事態は遅きに失していた。こうなれば何か注文せねば悪い気がする。

「うむ、ご主人。これは大変にご迷惑なお願いで恐縮なのであるが、この、うどん、うどんをですね、半分というわけにはいかぬだろうか」

「二人で半分こってわけか。ええよ、構わんよ」

「いえ、半分のやつを更に二人で分け合えないかということです。一人頭クォーターというわけです。そうして、勘定も半額でお願いしたい」

「更に恥の上塗りついででいえば、学生大盛無料のようなサービスをしていただければ光悦至極に存じます」

 店主の老婆はあきれたような不機嫌なような哀れみを含んだような、お年寄りの表情というのは長い人生で鍛錬された末にあまりにも含蓄に富み過ぎているため、平たくいえばおれには店主がどういう感情をどの程度の割合で抱いているのか推定できないのだが……、ともあれ、大声で叱責された上に店を叩き出されるという気配はないようだった。

「あんたら、銭ないんか。まあ、持っとるようには見えんわいな」

 おれと秋田は傲岸不遜な態度を見せることは無論なかったが、かといって過剰に卑屈な態度も見せぬよう努めた。我々の薄っぺらなプライドというよりかは、殊更に情に訴えかけることがどうにも卑怯に思えたからである。

「学生さんか」

「左様」

 店主はおれたちとの間合いを決めあぐねるような顔つき(おそらく)で束の間考え事をした。

「あんたらは棒振り回す連中よりかは無難に見えるかの……。そうさね……、大学の試験で満点取ったとかそういう立派なこたあるけ。あるなら祝儀にうどんぐらい食わせてやるわ」

 おれと秋田はアホ面を見合わせて仲良く首をかしげた。このアホ面をしたやつらはほとんどの専門科目で教授に土下座して単位をもらような有様だった。

 ほとんどあきらめて、おれは天を仰いで自らの甲斐性のなさを嘆息した。ところが、我が良き友である秋田の眼には希望の光が宿っていた。何か手があるというのだ。

「先週のことだが……、私は麻雀で役満を……国士無双を上がりました。残り少なくなった山から四枚目の北をツモりました。そのお陰で、その日は成人式のとき以来の純正ビールにありつく僥倖に恵まれました」

 おれは不覚の方角から飛んできたサッカーボールが頭に当たったときのような顔をした。我が朋輩に尊敬のまなざしを向けずにはいられなかった。どうやら、この男はおれが思っていた以上にどうかしているやつらしい。

「はぁ……、そっちの兄ちゃんは国士無双かえ……。ふうん……」

 店主は秋田をまじまじと見つめた。そもそも彼女が麻雀を知っているかどうかも定かではない。更にいえばやはり国士無双ではいささかインパクトに欠けるきらいがあり、天和とか九蓮宝燈であればまだしも説得力があったのではなかろうか。

 なんてことを心配していると、にわかに店主は笑い出した。

「イヒャ、ヒャ、ヒャ! よりにもよって国士無双とは、これはおみそれした! はぁ、おかし、ふはっ。ヒャッ、ヒャッ」

 おれには状況が全く見えていないのだが、秋田はわかったふうな顔をしていた。その横顔は知らない人が見れば怜悧そうに早合点してくれそうだが、実際のところこいつがこういう面構えをしているとき、ほとんど無策の出たとこ勝負であることが常だった。

「ええよ、あんたらが自分のことを国士無双というんなら、婆が飯を食わせてやるわい! 出世払いちゅうことでの。いやはや、いまどきこげなカンシンな若者に出会えるとは長生きはしてみるもんさね」

 店主はひとしきり笑い声を上げると入れ歯の噛み合わせが気になったのかもごもごしながら、のっそり厨房に引っ込んでいった。引き続きおれには店主と秋田とのあいだで生じた事象の文脈を把握できていなかったが、うどんを食べられそうなことは確かなようであり、それでもうほとんど納得してきていた。

 しばらくしてプラスチックの丼によそわれたうどんがやってきた。子供の時分に、小学校のバザーの露店で食べたうどんそっくりだったので、たぶん麺も汁も業務用として広く流通しているやつがあるのかもしれない、とか麺をすすりながら考えた。それに加えて、ここ数日はろくでもないものばかり摂取していたこともあり、人間らしい栄養に遠い郷愁の念を感じずにはいられなかった。

「うまいな」

「うむ。全くだ」

 快晴で、かなたの水平線までくっきりと見渡せた。遠くを眺めているとそれだけで少しばかり感傷的な気分になった。

「しかしあの水平線までの距離っていうのは思ったより近いらしいな。十キロメートルもないそうじゃないか」

 おれが柄にもなく景色を眺め続けていることについて、秋田はおれがそういうことを考えていると解釈したようだった。あるいは秋田も似たり寄ったりありきたりな感情を抱いた末での、彼なりの照れ隠しなのかもしれない。

「ごちそうさまでした」

「まことかたじけない。ご恩、いたみいる」

 おれと秋田はせめてバス代を除いた限界のお足を払おうとしたが、店主は「あたしが好きでやったことだわ」と、やはりはにかんでいるようなあてこすってるような機嫌を損ねているような、よくわからない表情を浮かべて一円も受け取らなかった。

 結局、おれたちはエイを捕獲することはできず、夏の海でうどんをただで食って帰ってくるだけで終わった。その晩、水着の女どもの姿を浮かべようとすると、しばしば海の家の店主の顔がちらつくことには閉口した。


「あれはあれで経験になったとは思わんかね」

「部分的にはな」

 おれも秋田も酒のお蔭でぼちぼち脳みそが腐ってきた。時計を見ると日付が変わろうとしている。あともう少しだけ飲めばもう少しだけ楽しくなって、その挙句にいっとき現実から逃げ出せるように思えた。

「しかし全体としては失敗に終わわわ」

「否定はできん」

 秋田の口から酒ともよだれとも判然としない液体が漏れた。この男は酔うと口がだらしなくなる癖の持ち主であった。その上、口に物をほおばりたがるし、口に物を入れたまましゃべりたがるのだから、しかしまあ、おれにはさほど関係のないことだし、忘れたころに意識して眺めてみるとその様はなかなかに滑稽でありつつも何か秋田の生に対するひたむきさを感じられる所作ともいえるので、おれは彼が思う存分やりたいようにやらせる方針でいた。

 秋田は肩にかけていた手ぬぐいで申し訳程度にもろ肌を拭いた。二回しゃっくりをして、水飲み鳥のように頭を振りながら、さもとっておきの秘め事を打ち明けるといわんばかりのしたり顔を浮かべて、おれをフラフラと指差し、語り始めた。

「ここだけの話だが……、実は……やれるあてが、ないこともない……」

 一瞬、室内に冷たい風が通ったように錯覚した。夏とアルコールのせいで火照った体に、刹那の寒気が生じた。古代の人々はこういう瞬間に霊的なものを見ていたのかもしれない。

「秋田君、一応は念を押させてもらうが、や、もちろんぼかあきみのことをうたぐった日なんて一日だってないのだけれども、その話はマブだろうな?」

「無論、本当に本当の話だ。ではおれの、とっておきのやれる話を披露してやろう――」


 その日、珍しく早く目が覚めた秋田は、まず朝食と昼食を兼ねてパンの耳を四片かじった。パンは足の裏のような臭いがした。一人ぷらぷらと人文学部棟一階東側に設けられている喫煙所にシケモク拾いにやってきた。たまには別の灰皿で吸殻を拾えば、いつもとは違った銘柄をブレンドすることになり、硬直化した凡庸な日常への刺激になるのではと考えてのことだった。

 符が良いことに、彼が喫煙所に訪れたときは無人であった。秋田は熟練の手つきでまだ余力がありそうな吸殻をひょいひょい袋に入れていった。思っていたよりも収穫はなかったが、とはいえ、工学部の教授たちが使っていないような銘柄らしき煙草もいくらかは手に入った。

 たまには早起きしてみるのも悪くはない、などと胸中でつぶやくとどうしたわけか世のお百姓たちにしみじみ感謝するような気持ちがわいた。最近、ろくに野菜を食べていないことに気づいた。

 喫煙所には焦げあととこびりついた煙草の灰で汚れたベンチが設置されていた。どっこいしょと腰掛け、最寄のガラス窓から真夏の白昼のキャンパスを眺めれば人っ子一人見当たらない。生活感どころか人類の気配すら喪失したようで、自分以外もうみんな死んだのだと思うのも一興か。

 などとくだらない思考で遊びながら、秋田はお手製の煙草をベコベコになったカンペンから取り出し、くわえた。こんなところで独り静かに一服入れるのも乙なものよ、などと気取ってだれも見ていないのをいいことになるたけキザったらしく煙草を扱ったりもした。

 吸った煙草はまずかった。末吉といったところだった。不随意に捨てられたシケモクを拾ってばらして詰め直す都合上、どうしても品質にばらつきが出た。おみくじを引いてるようで、大吉のような味を当てたときはご機嫌になれたし、大凶だとしてもその分の運がどこか別の機会に流れ込んだはずだと気力がわいた。秋田はそういうのんきな男だった。

 一本を灰にすると、急に眠気がまとわりついてきた。やはり早起きなどという慣れぬことはしないものだと思い、秋田はそのまま人体生理のなすがまま本能のおもむくまま、ベンチに寝そべってあてもなくうとうとすることにした。

「……でさ、その小屋に若い女が……知らんよ……そしたら、矮小よ、だって……ハッ、ハハハ……やばいやばい、こんなの聞かれたら……れちまうよ……ハハハハハ……おっと、自己批判、自己批判……」

 秋田は話し声に気づいて目が覚めた。すぐそばで人文学部の学生らしき二人の男子学生が煙草をふかしながら談笑していた。ヘルメットをかぶっているから自治会のがんばっているやつらだろう。いい匂いがした。意識は戻ったが全身の倦怠感で体を起こすのが億劫で、タヌキ寝入りというわけでもないのだが秋田はそのまま目を閉じて寝そべり続けていた。

「こいつ、この風貌、工学部のやつじゃないのか。なんでこんなとこに」

「さあね。まあ、利用価値はある。将来的には我々は彼のような労働しか能のない幼稚なノンポリどもを正しく指導してやらにゃならんのだ。寛大な態度で接してやろうじゃあないか」

「いえてる」

 学生たちの会話は秋田には明確には聞こえなかった。声がひかえめであったし、それに加えてなじみのないジャーゴンとかスノビズムに満ちた表現とかが随所にちりばめられていたせいで内容の把握がすこぶる難解であった。

 自治会の学生たちは秋田が人間としての尊厳を見失わないでいるあいだに喫煙所から去っていった。ああいう手合いは確かに過激ではあるが、と同時に我々よりもはるかに先進的であることは否定できず、純主観的にいえばうらやましいという感情を否定はできないと再認識した。

 

「――ということがあったのだ」

「つまり話を整理すると、その山小屋にはいき遅れた未亡人の亭主の二号が独りで住んでいて、彼女は別嬪さんで旧華族の名家の箱入り娘で、毎晩未熟で悩ましげな熟れた体に止め処もなく蓄積していくみだらな気鬱に悩んでいて男を求めて山をさまよっている姿が近所の小学生たちのあいだでは都市伝説としておもしろおかしく語られているというわけか」

「そういうことだ」

「なるほど。おれは途中から自分でも支離滅裂なことをしゃべっているなぁと心配になっていたのだが、その女性は男性と見れば血相を変えて閨事を挑んでくるというわけか」

「ほかに解釈のしようがない」

 おれと秋田は人の世の途方もない見果てぬ広さにうなだれ、平伏してしまった。世の中いろいろあるしいろんな人がいる。大学でお勉強を学び、ちっとは賢くなったつもりでいたが、現実、知らぬことばかりであった。今後の一瞬の人生の中で、果たしてどれほどのものを得られるのかと思えば虚無主義に陥りそうにもなった。

 しかし今宵は、我が友秋田によって、この宇宙にちりばめられた隠された真実の一つに触れることができたのである。これこそが人の世のよろこびではあるまいか。

 おれは立ち上がった。もはや一秒の猶予もならぬ。不幸とは己がやるべきことを知らぬことである。捧げるべき相手を知らぬことであり、仕えるべき主を知らぬことである。多くの人々は進むべき針路がわからぬまま嵐の夜に放り出され大海の藻屑と消えていく。しかし我々はどうだ。いま真に何をすべきかを知っている。暗黒の中で輝く光へと向かえば極楽が待っているのである。

「よし、行くか」

 おれは立ち上がったのだ。少しだけよろけたが、まだそんなに酔っ払っていないように思えた。唐突なおれの挙動にされど秋田はさもありなんといった表情を浮かべた。

「悪くはない。まだたったの午前零時だ」

 秋田もゆらりと腰を上げた。お互い無言のまま、全然酔ってないもんね、といった視線を送りあってニヤニヤした。このときより、おれたちは自らの足で遠い道を歩き始めるのだ。

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